伝記
アビゲイル・スミス・アダムズは、1744年11月11日に生まれ、1818年10月28日に亡くなった、第2代アメリカ合衆国大統領ジョン・アダムズの夫人で、第6代大統領ジョン・クインシー・アダムズの母である。マサチューセッツ植民地のウェイマスで、ウィリアム・スミスとエリザベス・クインシー・スミスの次女として生まれた。母方はマサチューセッツで名の通った政治家の家系だった。幼いころは病弱で、学校に通えるほど健康ではないと思われたため、公の教育は受けられなかったが、母から姉たちとともに読み書きや算数を教わり、父やおじ、祖父の書斎でイギリス文学やフランス文学を学んだ。
ジョン・アダムズは1762年にアビゲイルと会い、二人は茶目っ気のある率直なラブレターを交わすようになった。26歳のアダムズは、17歳の聡明で活発な少女に心を惹かれた。1764年10月25日にウェイマスのスミス家で結婚し、ジョンの父から受け継いだ農園とコテージに住んだ後、ボストンに移った。夫は結婚当初から政治活動で忙しく、別居の繰り返しは一生続いた。結婚生活の大半は「未亡人生活」のようなものだったとアビゲイルは述懐している。夫との間に6人の子がいて、うち次男ジョン・クインシーは第6代大統領となった。
夫が大陸会議でフィラデルフィアにいる間に交わした膨大な手紙で知られている。夫は多岐にわたる相談を頻繁にし、手紙は政治や政府に関する意義深い対話に満ち、アメリカ独立戦争の史料としても貴重とされる。1776年に、夫と第二次大陸会議に宛てた手紙では、「女性たちのことを忘れないでください」と求め、夫の手中に絶大な権力を与えないよう訴えた。女性たちに特別の注意が払われないなら謀反を煽動すると述べ、私たちの声が反映されていない法に縛られることはない、とも記した。夫には断られたが、女性の平等な権利を求める最古の書物の一つとして評価される。奴隷制を民主主義への脅威と考え、1791年にはフィラデルフィアで、自由民の黒人の若者に読み書きを教えて、地元の夕方の学校に委ねた。
1784年にフランスで夫と再会し、パリでフランス人のマナーを興味深く観察した。翌1785年には、初代の在英全権公使となった夫を支え、1788年に喜んで夫とともに帰国した。1789年にアダムズが初代副大統領になると、アビゲイルはセカンドレディとして公式行事を真面目にこなした。夫は副大統領職を「世の中で最も無意味な職務」と失望し、彼女も二期目にはマサチューセッツへ帰った。1797年に夫が第2代大統領に選ばれると、ファーストレディとして精力的に活動した。活発で知的な会話の上手なホステスと評され、皮肉をこめて「夫人大統領」と呼ぶ者もいた。1798年にフランスとの戦争の危機が高まると、強硬論者として夫に開戦を促したが、平和維持を優先する夫に納得した。
1800年11月、新しい大統領官邸ホワイトハウスで4か月を過ごした。建物はまだ未完成で、大階段もなく、水は800メートル離れた隣家から汲まねばならなかった。部屋は冷たく、アビゲイルはリューマチに悩まされた。1800年の選挙でアダムズが敗れ、翌年に一家は故郷のクインシーに退いた。後年、政敵ジェファーソンとの手紙のやり取りを再開している。1818年10月28日、腸チフスにより73歳で亡くなった。夫は息子に、彼女がそばにいなかったら自分は成功したか疑わしいと語り、息子は「母は地上の天使だった」と述べた。
同じ年に亡くなった人物
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- ポール・リビア (1818年没)
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- Ali Bey al-Abbasi (1818年没)
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