伝記
ソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツは、イギリス国王ジョージ3世の王妃で、ドイツ語名はゾフィー・シャルロッテである。1744年5月19日に、北ドイツの小公国メクレンブルク=シュトレーリッツのミーロウで生まれた。父はミーロウ公子カール・ルートヴィヒ、母はザクセン=ヒルトブルクハウゼン家出身のエリーザベト・アルベルティーネで、2人の末娘だった。兄に、のちの公アドルフ・フリードリヒ4世らがいる。子どもたちは質素なミーロウ城で育ち、暮らしはイギリスの地方の下級貴族の家庭とほとんど変わらなかった。午前は勉強と裁縫、刺繍、かぎ針編みにあてられ、シャルロッテと姉は上手だった。家庭教師には、植物学や鉱物学、科学に詳しいルター派の牧師もおり、チェンバロも作曲家から習った。ただ、1761年の婚約のころの外交報告は、彼女が「きわめて平凡な教育」しか受けていないと記し、イギリス人の間にも田舎育ちを不安視する声があった。1752年に兄が公位を継いでから、君主の務めや宮廷生活を経験した。
ジョージ3世は、母后オーガスタと首相ビュート伯の度重なる干渉を嫌い、侍従武官のグレアム大佐を独自にドイツへ派遣し、王妃にふさわしい女性を探させた。大佐が推薦したのが、当時17歳の公女シャルロッテである。美人ではなかったが、表情豊かで聡明、小柄で細身の姿は好ましく、茶色の髪と歯並びの良さがあり、愉快で快活な目をしていたという。小国で育ったため権力政治や党派の陰謀に無縁だろうと見込まれ、実際にその通りで、王は結婚の直後に「口を出さない」ように命じ、彼女は従順に守った。7月に結婚の意向が議会に告げられ、ハードウィック卿がメクレンブルクへ派遣された。母は結婚に乗り気で書簡を交わしたが、6月29日に亡くなった。8月末、一行は嵐のなか出発し、特別に改名された御用ヨットで海を渡った。1761年9月8日に挙式し、14日後の9月22日に戴冠式が行われた。王は王妃とともに戴冠するため、即位後1年あまりも戴冠式を延ばしていたという。
王との家庭生活は円満で、ジョージ4世、ヨーク公フレデリック、ウィリアム4世、ケント公エドワード(ヴィクトリア女王の父)、ハノーファー国王エルンスト・アウグストら、9男6女の母となり、15人のうち13人が成人したとされる。のちに自らハノーファー選帝侯妃、ついで王妃ともなった。夫の女性関係で悩むことはなく、政治に口を出さず、宮廷行事でも出しゃばらなかった。しかし子どもたちの不品行には、夫とともに心の安まる時がなかった。たびたび精神異常を起こす夫を献身的に介護し、ロンドンを出てウィンザー城で共に暮らした。ヨハン・クリスティアン・バッハやモーツァルトの後援者としても知られる。植物を愛し、ロンドンのキュー植物園の設立に協力し、園内のクイーン・シャーロット・コテージで家族と過ごした。ウェッジウッドの陶磁器を購入して、「クイーンズウェア」の称号を許した。1818年11月17日に74歳で没し、ウィンザー城内のセント・ジョージ礼拝堂に葬られた。黒人の血を引くという説が大衆に知られるが、歴史学界ではすでに否定されている。
同じ年に亡くなった人物
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- アブドゥッラー・ビン・サウード (1818年没)
- マトヴェーイ・プラートフ (1818年没)
- ジュゼッペ・ガッザニーガ (1818年没)
- オロフ・ペータ・シュヴァルツ (1818年没)
同じ地域に関係する人物
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- ウィリアム・K・L・ディクソン (1935年没)
- フランツ・フォン・テック (1900年没)
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