伝記
ミハイル・ボグダノヴィチ・バルクライ・ド・トーリは、ナポレオン戦争期のロシアの軍人で、元帥である。1761年12月27日に、リヴォニアのパムシス(現在のリトアニア)で生まれた。家はスコットランド貴族の家系で、17世紀にクロムウェルの弾圧を逃れてリガへ移住した。祖父はリガ市長を務め、ロシアがリヴォニアを併合した後はロシア国籍となった。父は短期間将校を務めて中尉で退役した人物で、のち牧師になったとも記される。母はスウェーデン軍に代々仕える貴族スミッテン家の出身である。貧しい家柄ながら家庭教師から学び、1769年12月に騎兵曹長に任命され、14歳で軍人の道を歩み始めた。プスコフ騎兵連隊に配属され、1778年に騎兵少尉、1783年に陸軍少尉となり、1786年にフィンランド猟兵軍団に移った。1791年には、いとこのエレーナ・フォン・スミッテンと結婚した。
1787年からのトルコとの戦争では、オチャーコフ攻囲戦で初陣を飾り、突撃の功で四等聖ウラジーミル勲章を受け、少佐に昇進した。アッケルマンの奪取にも加わった。1790年にはフィンランドでスウェーデン軍と戦い、サルトゥイコフ伯の副官となった。1792年に反乱鎮圧のためポーランドに派遣され、本格的な戦闘が始まった1794年には、大隊長としてヴィリナへ突入し、退却する敵を追撃して破った。この働きで四等ゲオルギー勲章を受け、中佐に昇進した。1798年に大佐となり、1799年3月、連隊の模範的な訓練をパーヴェル1世に認められて少将に昇進した。
1806年12月、プルトゥスクの戦いで初めてナポレオン軍と衝突し、ランヌ元帥の部隊と交戦して陣地を確保し、三等聖ゲオルギー勲章を授かった。アイラウの戦いでは、市の防衛を組織しつつ騎兵突撃に加わり、右腕に銃弾を受けた。腕の切断さえ検討される重傷だったが、皇帝アレクサンドル1世が自らの主治医を送って救い、皇帝の見舞いも受けて地位が高まった。1807年4月9日に中将となり、第6歩兵師団長に任命された。1808年からの第二次ロシア・スウェーデン戦争では、フィンランドに侵攻し、6月にクオピオを占領したが、病に倒れて帰還した。1808年12月、冬にボスニア湾を氷上で渡る侵攻を提案し、バグラチオンらとともに準備した。1809年3月に成功して、スウェーデン軍の退却を招き、戦争の帰趨を決した。この功で歩兵大将に昇進し、聖アレクサンドル・ネフスキー勲章を受けた。1810年1月に軍事相に任命され、フランスとの戦争に備えた。ナポレオンのロシア遠征では第1軍を指揮した。
当時の歩兵指揮官のなかでは特に優秀で、粘り強い戦いぶりと攻守両様の采配に定評があった。焦土作戦の立案や軍の近代化に着手し、遠征を頓挫させるきっかけをつくった。しかし人望が薄く、部下をまとめきれず、焦土作戦が成功するまでは知名度が低く、悪評も多かった。戦後は軍の強化に尽くし、屯田兵の導入を公然と批判したが、皇帝の信任は変わらなかった。1818年に健康が悪化し、保養地へ向かう旅の途中、東プロイセンのインステルブルクで没した。没日は3月26日とも5月14日ともいわれる。葬儀はリガで行われ、記念碑は1837年にペテルブルクのカザン広場などに建てられた。
同じ年に亡くなった人物
- オロフ・ペータ・シュヴァルツ (1818年没)
- マリア・ルイーゼ・アルベルティーネ・ツー・ライニンゲン=ファルケンブルク=ダグスブルク (1818年没)
- ヨハン・ダビット・ウィース (1818年没)
- レオポルト・アントニーン・コジェルフ (1818年没)
- 伊能忠敬 (1818年没)
同じ地域に関係する人物
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- フリードリヒ・ルートヴィヒ (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ベック公) (1728年没)
- ローザ・シャーニナ (1945年没)
- イマヌエル・カント (1804年没)
- アルブレヒト・フリードリヒ (プロイセン公) (1618年没)