HISTORICAL PERSON · 1821年没

ジョン・キーツ

イギリスのロマン主義詩人。結核のため25歳で亡くなり、出版は最後の4年足らずの間の3冊のみだったが、死後に名声が高まった。『ナイチンゲールへのオード』などで知られ、ラファエル前派に影響を与えた。

生涯
1821年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イギリス連邦(ムーアゲート)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ジョン・キーツは、1795年10月31日に生まれ、1821年2月23日に結核で没したイギリスのロマン主義の詩人で、バイロン、シェリーとともに第二世代に属する。25歳で亡くなり、詩が世に出た期間は4年足らずで、生前は冷遇されたが、死後まもなく名声が急速に広がった。19世紀の終わりまでに英文学の正典に数えられ、ラファエル前派の文人に大きな影響を与えた。感覚的な表現を特徴とし、とりわけ一連のオードで知られる。今日、その詩と書簡は英文学の中で最も人気があり、数多く解析されている。

ロンドンのムアゲイトで、貸し馬車屋を営む父トマスと母フランシス(旧姓ジェニングズ)の長男として生まれた。誕生日は家族が10月29日としていたが、洗礼記録は31日となっている。正確な生誕地の証拠はほとんどない。弟にジョージとトマス、妹ファニーがいて、ジョージは後にアメリカに移住し、トマスは19歳で亡くなった。父は、母方の祖父が経営する宿の付属の厩舎で馬丁として働き、結婚後は宿の経営にも参加した。キーツは自分がこの宿で生まれたと信じていたが、証拠はない。1803年、近くのエンフィールドにある学校に寄宿した。この小さな学校は進歩的な校風で、校長の息子で教師のチャールズ・カウデン・クラークがキーツの師であり友人となり、ルネサンス文学を教え、のちロンドンの文学的な社交界とも接する助けになった。キーツは13歳のころから読書と勉強に力を注ぎ、1809年に最初の学業賞を得た。

しかし1804年、父が落馬で頭蓋骨を折って死に、母は再婚してまもなく去り、子供たちは祖母に引き取られた。1810年には母も結核で死去した。エンフィールドの学校を去ったキーツは、祖母の計らいで外科医兼薬剤師の徒弟となり、1815年に満了すると、ガイズ病院の医学生兼助手になった。1816年に薬剤師の資格を取ったが、同じ頃、リー・ハントの雑誌に最初の詩を発表し、10月にはハント・サークルで画家ヘイドンやレノルズらと会い、その主要メンバーの一人となった。

1817年に処女詩集『詩集』を出版し、1818年にスコットランドを旅した。ハムステッドに戻ってファニー・ブローンと知り合い、翌年非公式ながら婚約した。旅立つ前に、4千行にも及ぶ寓意叙事詩『エンディミオン』を出版したが、評論誌から激しく批判された。気落ちして湖水地方からスコットランドを旅したが、この頃から、結核の兆候である喉の不調が目立った。弟トムは12月1日に母と同じ結核で死去した。続いてミルトン風無韻詩による『ハイペリオン』を書き始めたが、未完に終わり、改稿して『ハイペリオンの没落』を書き始めたが、これも未完に終わった。1819年には『秋に寄せて』『ギリシャの古壺のオード』などの代表的オードが次々と発表された。

病状は好転せず、ファニーとの結婚を諦めた。さらに悪化し、医者の勧めでイタリアでの療養を決めた。ローマのスペイン広場の近くに住み、友人の手厚い看護を受けながら、1821年2月23日に25歳で死去し、ローマの新教徒墓地に葬られた。遺言により、墓石には「その名を水に書かれし者ここに眠る」と彫られている。「ナイチンゲールへのオード」や、ソネット「初めてチャップマンのホーマーを読みて」がよく読まれ、「不可解なものを受け入れる能力」を意味するネガティブ・ケイパビリティはキーツの概念として知られる。

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