伝記
ナポレオン・ボナパルトは、1769年8月15日にコルシカ島のアジャクシオで生まれ、1821年5月5日に没したフランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世(在位1804年から1814年、1815年)となった。革命後の混乱を収拾して軍事独裁政権を確立し、大陸軍と名づけた軍隊を築いて、欧州諸国とのナポレオン戦争を戦った。勝利と婚姻政策により、イギリス、ロシア、オスマン帝国の領土を除くヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いたが、対仏大同盟に敗れ、百日天下を経て、51歳のとき、南大西洋の英領セントヘレナで没した。
父カルロ・マリア・ブオナパルテと母マリア・レティツィア・ラモリーノの間に、12人の子(4人は夭折)のうち4番目として生まれた。ブオナパルテ家はトスカーナに起源を持つ古い血統貴族で、16世紀頃にコルシカ島に土着した。判事の父はコルシカ独立闘争の指導者パスカル・パオリの副官を務めたが、ナポレオンが生まれる直前にフランス側に転向し、報奨としてフランス貴族と同等の権利を得た。コルシカ総督とも懇意になり、その援助で、教育のためナポレオンと兄ジョゼフをフランス本国へ送った。1794年頃、イタリア式の名ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテを、フランス風のナポレオン・ボナパルトに改め、署名も改めた。
10歳のとき奨学金でブリエンヌ陸軍幼年学校に入り、数学で抜群の成績を修めた。1784年にパリの陸軍士官学校に入り、花形の騎兵科でなく砲兵科を選んだ。通常4年前後の課程をわずか11か月で修了し、これは開校以来の最短記録であった。無口で友達の少ない少年で、節約を兼ねて読書に明け暮れ、プルタルコスの『英雄伝』やルソーの著作を精読した。母語がコルシカ語のため、そのなまりを馬鹿にされ、「藁鼻」とあだ名された。癇癪持ちで短気な一面もあり、小説家にも憧れた。1785年、16歳で砲兵士官に任官した。1789年にフランス革命が勃発しても、コルシカ民族主義者だった当時の彼は革命に無関心だった。
1792年、故郷の国民衛兵隊中佐に選ばれたが、親仏派のブオナパルテ家は、パオリの腹心ポッツォ・ディ・ボルゴら親英派に弾劾され、島から追放されて南仏マルセイユに移った。1793年、トゥーロン攻囲戦で、港を見下ろす二つの高地を奪って大砲で敵艦隊を狙う作戦を進言し、これが採用されて成功した。この功績で24歳にして旅団将軍に昇進し、若き英雄となった。ロベスピエール失脚後の1794年は、逮捕・収監されて降格された。1795年にはヴァンデミエールの反乱の鎮圧を副官としてほぼ一任され、首都の市街地で大砲を撃つ大胆な戦法で成功して師団将軍に昇進し、国内軍司令官となった。
1796年、ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚し、同年イタリア方面軍の司令官に抜擢された。ナポレオン軍は連戦連勝で、1797年10月にオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結び、第一次対仏大同盟は崩壊した。1798年にはイギリスとインドの連携を断つためエジプト遠征に赴き、ピラミッドの戦いに勝ったが、アブキール湾の海戦で艦隊が大敗して孤立した。1799年、軍を次将クレーベルに託して単身帰国し、11月にブリュメール18日のクーデターで統領政府を樹立し、第一統領となって実質的に独裁権を握った。1800年6月のマレンゴの戦いでオーストリア軍に勝利し、翌年リュネヴィルの和約で第二次対仏大同盟が崩壊し、1802年3月にはイギリスとアミアンの和約を結んだ。
同じ年に亡くなった人物
- カロリーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (1821年没)
- ホセ・ミゲル・カレーラ (1821年没)
- トゥドル・ウラジミレスク (1821年没)
- ハイム・ヴォロジン (1821年没)
- ポマレ2世 (1821年没)
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