HISTORICAL PERSON · 1824年没

テオドール・ジェリコー

19世紀前半のフランスの画家。実際の事件を題材にした『メデューズ号の筏』が代表作で、ロマン派絵画の先駆者と見なされる。馬を好んで描き、1812年に『突撃する近衛猟騎兵士官』でサロンの金賞を得た。

生涯
1824年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(ルーアン)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

テオドール・ジェリコーは、19世紀前半に活動したフランスの画家である。1791年9月26日にルーアンで生まれ、1824年1月26日にパリで、32歳で没した。同時代に起きた生々しい事件を題材とした『メデューズ号の筏』が代表作で、ドラクロワらに影響を与え、ロマン派絵画の先駆者と見なされる。

作風は古典主義を基本としながらも、生来、神話画や宗教画を好まず、現実社会の描写に深い関心を示した。生と死が隣り合わせの極限状態の人間を描いた作品は人間存在の本質に迫るもので、徹底した写実を追求した。こうした仕事は、ロマン主義や写実主義の先駆と位置づけられる。

ルーアンの裕福な中産階級の家に生まれ、1796年ごろに家族とともにパリへ移った。父は弁護士で資産家であり、息子が画家以外の安定した職に就くことを望んだが、ジェリコーは絵への情熱を捨てきれず、1808年、画家カルル・ヴェルネに弟子入りした。古代の神話や聖書の物語よりも、身のまわりの現実を描くことに関心を示した。特に馬への関心は並々ならぬもので、生涯にわたって馬を題材にした作品を多く残している。ヴェルネは馬の画家として第一人者だったが、ジェリコーはその馬に躍動感が欠けると感じていた。1810年から1811年にかけて画家ゲランに師事したが、この師にも満足できず、ルーヴル美術館に通って、ティツィアーノやルーベンスら過去の巨匠の作品を師とした。

1812年、21歳で『突撃する近衛猟騎兵士官』をサロンに出品して金賞を得た。激しく動く馬に乗った士官が振り向きざまに号令をかける一瞬を描いた作品である。1814年に『戦場から去る負傷した胸甲騎兵士官』を出品した。ジェリコーが正式に出品した作品は、この2点と『メデューズ号の筏』の計3点だけである。当時のフランスは波乱の時代であり、ジェリコーも自ら近衛騎兵に志願したが、のち画業に戻った。1816年から1817年にはイタリアに滞在し、ミケランジェロのダイナミックな人物表現に影響を受けた。

帰国後の1819年、サロンに問題作『メデューズ号の筏』を出品し、賛否両論を巻き起こした。1816年、アフリカ西海岸のセネガルを目指していたフリゲート艦メデューズ号が座礁した。乗客は救命ボートに乗りきれなかったため、149名が破損した船の用材で作った筏に移され、漂流して12日後に発見されたときの生存者は15名だった。政府は事件を隠したが、筏の上で殺人や食人を含む非人間的な行為があったことが明るみに出た。ジェリコーはこれに衝撃を受けて絵画化を決意し、遠くに戦艦を見つけて手を振りながら、それが遠ざかると気づいて絶望する場面を描いた。生存者の話を聞き、瀕死の病人や処刑された罪人の首をスケッチして、現実らしさを追求した。凄惨な表現のためか、サロンでは政治的批判を含むと見なされて議論になった。ルーヴル美術館は買い取りに意欲を示したが、実際には作品の封印を意図したもので、倉庫の奥に隠した。失望したジェリコーは翌1820年に作品を取り戻してイギリスに渡り、同地で展示して、おおむね好評を得た。

1820年から1822年にイギリスに滞在し、1821年に『エプソムの競馬』を描いた。駆ける馬の一瞬の姿を画面にとどめた作品で、ドガを先取りするものと評される。帰国後は、友人の精神病理学の研究者に頼まれ、サルペトリエール病院の精神障害者10人をモデルとした連作を描いた。1823年に落馬や馬車の事故がもとで持病の脊椎結核が悪化し、翌年に亡くなった。死の間際の言葉は「まだ、何もしていない」だったという。

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