HISTORICAL PERSON · 1825年没

アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)

ロシア皇帝。初め自由主義的改革を志したが後に反動化し、ウィーン会議を主導した。治世中にフィンランドとポーランドを獲得した。

生涯
1825年没
死亡地
ロシア連邦(ロストフ州 / タガンログ)
出生地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出典
世界地図
ロシア連邦(ロストフ州)

伝記

アレクサンドル1世は、1777年12月23日(ユリウス暦12月12日)に生まれ、1825年12月1日(ユリウス暦11月19日)に没したロマノフ朝第10代ロシア皇帝である。在位は1801年3月23日から1825年12月1日まで。初代ポーランド立憲王国国王、初代フィンランド大公も兼ねた。ナポレオン戦争を経て、治世の前半の自由主義的な政策から、後半は強権的な反動政治へ転じた。治世中にロシア帝国はフィンランドとポーランドを獲得した。

皇帝パーヴェル1世と皇后マリア・フョードロヴナの第1皇子として、サンクトペテルブルクで生まれた。祖母のエカチェリーナ2世によってアレクサンドル・ネフスキーにちなんで命名された。生まれてすぐに女帝に両親のもとから引き離され、その手元で養育された。女帝は息子パーヴェルと折り合いが悪く、廃嫡して孫を帝位につけることも念頭にあったと伝えられる。そのため、祖母と父の間に立って、うまく立ち回る術を身につけた。7歳から11年間、家庭教師を務めたのは、ルソーに心酔するスイス人のラ・アルプで、その影響で自由主義的傾向を強く持った。一方、軍人のサルトゥイコフ大佐からはロシアの伝統的な専制の原則を叩き込まれ、父の住むガッチナで閲兵式に臨席して自ら中隊を指揮した。

1793年にバーデン大公女ルイーズ(エリザヴェータ・アレクセーエヴナ)と結婚した。1796年にエカチェリーナ2世が崩御してパーヴェル1世が即位したが、貴族の反感を買い、1801年3月11日深夜から翌日にかけて、近衛連隊がミハイロフスキー宮殿に乱入して皇帝を暗殺した。アレクサンドルの役割については歴史家の間で議論があり、計画を事前に知っていたといわれるが、父の死には非常な衝撃を受け、罪悪感にさいなまれて、より慎重になった。3月23日に即位した。

即位後は自由主義的な改革に着手し、非公式の諮問機関として秘密委員会を設けた。委員は「若き友人たち」と呼ばれる、西欧の進歩的啓蒙思想に通じた青年貴族らで、立憲君主制の導入、農奴制の廃止、教育制度の改革などを議論した。多くは空論に終わったが、ピョートル1世以来の参議会制を廃し、外務、陸軍、海軍、内務、大蔵、文部、司法、商務の8省庁を置いた。保守派の反発を招き、秘密委員会は1807年に解散した。ミハイル・スペランスキーが国家評議会と国会の設立を含む大胆な法制改革案を示したが、時期尚早で貴族や官僚の憤激を買い、ナポレオンとの関係悪化もあって、1812年3月に彼を解任して追放した。

外交では、即位直後に父の中立路線を翻し、イギリスと同盟し、プロイセンとも同盟を結んだ。ラ・アルプの影響でナポレオンに敬意を示していたが、1804年のアンギャン公の処刑で野心に恐怖を抱き、1805年に第三次対仏大同盟を結んだ。同年のアウステルリッツの戦いに敗れ、1807年のアイラウとフリートラントでも敗れて、ティルジットの和約に合意し、大陸封鎖令に参加した。この結果ロシアはスウェーデンと戦ってフィンランドを併合し、トルコと戦ってベッサラビアも併合した。しかし貴族は農産物をイギリスに輸出して利益を得ていたため、大陸封鎖は死活問題であった。露仏の関係は悪化した。1812年6月、69万人余りの大陸軍がネマン川を渡って侵入すると、ロシア軍は焦土作戦で後退し、アレクサンドルは総司令官をバルクライからクトゥーゾフに替えた。9月にナポレオンがモスクワに入城した夜に大火が起き、大陸軍は退却を始めた。アレクサンドルはその勢いに乗って、対仏大同盟を復活させた。

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