HISTORICAL PERSON · 紀元前422年没

クレオン (政治家)

アテナイの政治家。ミュティレネの反乱鎮圧で強硬な処罰を主張する一方、スファクテリア島でスパルタ兵を降伏させたが、アンフィポリスの戦いで敗死した。

生涯
紀元前422年没
死亡地
ギリシャ共和国(中央マケドニア / アンフィポリス)
出生地
ギリシャ共和国(アテネ)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(中央マケドニア)

伝記

クレオンは、紀元前5世紀後半のアテナイの政治家で、デマゴーグ(民衆の指導者)の代表とされる人物である。生年は不明で、紀元前422年に没した。裕福な皮鞣業者クレアイネトスの子で、旧来の大土地所有者ではないものの、手工業を営む裕福な名望家層の出身であった。デマゴーグは無教養な成り上がりとして描かれがちだが、実際にはそうした階層の人々だったという。トゥキュディデスは彼を、他の問題でも市民のなかで最も乱暴で、当時最も説得力のある人物と評した。

紀元前440年ごろ、名門のディカイオゲネスの娘と結婚し、政界進出の糸口をつかもうとしたらしい。だがペリクレスの存命中は新参者に機会がなく、将軍職はベテランに独占されていて、軍事的な威信もなかった。そこで弁論に目をつけた。この武器が存分に発揮されたのが、ミュティレネ裁判である。紀元前428年のミュティレネの反乱が翌年に鎮圧されると、クレオンは男子全員の処刑と女子供の奴隷化を民会で提案した。一日目の民会では可決され、命令を伝える快速船が送られたが、人々はあまりに過酷な判決を悔い、審議をやり直した。ディオドトスの提議で処罰は首謀者のみとなり、修正を伝える船が間一髪で間に合った。その後、アテナイに送られた首謀者1000人は、クレオンの提案で処刑された。

紀元前425年、メッセニアのピュロスでスパルタとアテナイが戦っていたとき、スパルタから講和の使節が来た。クレオンは戦争の続行を扇動し、スファクテリア島のスパルタ兵の武装解除とアテナイへの移送、ニサイア、ペガイ、トロイゼン、アカイアの返還を条件として示させ、スパルタ側は拒んで交渉は決裂した。やがてピュロスから、冬になれば包囲は難しいという使者が来たが、戦況は有利だと主張していたクレオンは、使者は真実を伝えていないと述べた。そのため視察者にクレオン自身とテアゲネスが選ばれた。窮したクレオンは、自分なら島のスパルタ兵を捕らえられると言い出した。対立していたニキアスが自分の指揮権を譲ると、クレオンは20日以内に捕らえるか殺すと宣言し、名将デモステネスを同僚に選んで出航した。主力の重装歩兵は連れず、レムノスやインブロスの兵、アイノスの軽装歩兵、弓兵400人を伴った。その軽装歩兵と弓兵が左右から矢玉を放ち、敵が近づけば退き、引けば再び攻めて消耗させ、絶対に降伏しないといわれたスパルタ兵120人を含む292人を降伏させた。指揮官の名がトゥキュディデスの戦闘描写に出ず、クレオンの関与の度合いは分かっていない。帰国した彼は一躍時の人となった。

クレオンは陪審員手当てをペリクレスが導入した2オボロスから3オボロスに増額した。同じ年には、娘婿のトゥディッポスが貢租の再査定を決議した。これも彼の政策と考えられ、ペリクレスの路線とさほど変わらなかった。紀元前423年にはスキオネ市民の処刑を提案して可決された。紀元前422年には、スパルタ将軍ブラシダスに奪われたアンフィポリスの奪回のため、重装歩兵1200人、騎兵300騎、同盟軍、艦船30隻を率いてトラキアへ向かった。トロネを落とし、男は捕虜に、女子供は奴隷として売った。アンフィポリスに迫ったがブラシダスの出撃を受け、トゥキュディデスは逃げようとして殺されたと述べ、ディオドロスは勇敢に戦って討ち死にしたと述べる。後世の悪評はトゥキュディデスとアリストファネスに負うところが大きく、二人は彼に恨みを持っていたとされる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物