伝記
武則天は、中国史上唯一の女帝である。唐の高宗の皇后となり、のちに唐に代わって武周朝を建てた。諱は照で、則天は諡号に由来する通称である。日本では則天武后と呼ばれることが多いが、これは彼女が遺言によって皇后の礼をもって埋葬されたことを重んじた呼称である。
利州都督の武士彠と後妻の楊氏の次女として生まれた。生家の武氏は、唐初の政治を担った関隴貴族集団のなかでは傍流であったが、代々財産家であったため、幼い武照は父から高度な教育を与えられた。ところが12歳のときに父が死去し、異母兄と従兄に虐げられる暮らしを送ることになった。貞観11年(637年)に太宗の後宮に入って才人となったが、宮廷に「李に代わり武が栄える」という流言が広まり、太宗は武照の聡明さが唐に災いをもたらすのではないかと疑って遠ざけた。太宗が重病になると、看病に当たった皇太子の李治(のちの高宗)と初めて顔を合わせた。貞観23年(649年)に太宗が崩御すると、彼女は出家することになったが、正式な尼にはならず、女性の道士として道観で修行した。1年後に寺院を訪れた高宗と再会し、やがて王皇后が、寵愛を争う蕭淑妃から高宗の関心をそらそうと推薦したため、昭儀として後宮に入った。
その後、王皇后自身も高宗から疎まれるようになった。李義府や許敬宗らが皇后の廃立と武照の擁立を後押しし、高宗が重臣に下問すると、長孫無忌と褚遂良は反対し、李勣のみが消極的に容認した。高宗は詔書で王皇后と蕭淑妃を罪に問うて庶民に落とし、その7日後に武照を皇后に立て、諫言した褚遂良を潭州都督に左遷した。なお、詔書には「事同政君」とあり、太宗の妃であったことへの世論を避けようとした表現と解される。皇后となった武照は、監禁されていた二人を百叩きにしたうえ惨殺したとされる。
皇后となった武照は高宗に代わって政治を執った。貴族の積極的な支持がないと自覚していたため、狄仁傑、姚崇、宋璟、張説ら新興富裕層の出身者を登用し、才能と忠誠心を重んじた。660年には新羅の請願を容れて百済を滅ぼし、白村江の戦いにも勝利して、その5年後には高句麗を滅ぼした。一方で、密告政治と酷吏によって反対者を排除し、皇太子を次々に殺害したともいわれる。683年に高宗が崩御すると、中宗を即位させたがまもなく廃位し、弟の睿宗を擁立して実権を握り続けた。唐の皇族の挙兵はいずれも破られ、彼女は預言書として『大雲経』を流布させ、明堂を宮城内に建てて帝位簒奪の準備を整えた。
690年、彼女は自ら帝位に就いて国号を周とし、聖神皇帝を称した。この王朝を武周と呼ぶ。仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改め、各州に大雲経寺を造らせた。治世の後半には狄仁傑の推挙で多くの官僚を登用し、姚崇や宋璟の才も見抜いた。則天文字と呼ばれる新しい漢字も創り、徳川光圀の名などに見える日本の「圀」の字もその一つである。
晩年に病床にあることが増えると、唐の復活を望む機運が高まった。705年、宰相の張柬之らは寵臣の張易之・張昌宗兄弟を斬り、武則天を退位させて中宗を復位させ、国号は唐に戻った。彼女はまもなく世を去り、706年5月に乾陵で高宗と合葬された。
同じ年に亡くなった人物
- アブドゥルアズィーズ・ブン・マルワーン (705年)
- アルズフリス (705年没)
- マーストリヒトのラムベルトゥス (705年)
- ハッサン・アル=ガッサーニー (705年)
- ヨハネス6世 (ローマ教皇) (705年没)