伝記
ラケスは、ペロポネソス戦争期のアテナイの将軍である。メラノポスの子で、ティモクラテスの父にあたる。生年は不明だが、紀元前475年ごろとされることもあり、プラトンは彼がソクラテス(紀元前470年ごろの生まれ)よりはっきり年長だったと述べる。トゥキュディデスによれば、アイクソネ区の出身で、ケクロピス部族に属する家柄だった。没年は紀元前418年である。
紀元前427年、シュラクサイとレオンティノイの戦いでレオンティノイを助けるため、ラケスはカロイアデス(ユスティヌスによればカリアデス)とともに共同の指揮官となり、20隻の艦隊を率いてシケリアへ送られた。アテナイ軍はレギオンに基地を置き、シュラクサイの同盟国であるリパラ島を荒らし、ロクリスを攻撃した。紀元前426年にカロイアデスがシュラクサイ人との戦いで戦死すると、ラケスが艦隊の最高指揮を引き継いだ。夏にはメッセネ領のミュライへ向かい、途中でメッセネ人に襲撃されたがこれを破り、メッセネを降伏させて人質を出させた。続いてミュライを包囲し、援軍に来たシケリアのギリシア人を破って、1000人以上を殺し、600人以上を捕虜にしたとされる。
その冬、ラケスはシュラクサイ人にアクロポリスを占拠されていた先住民シケロイ人の町アエトナを、シケロイ人とともに攻めたが落とせず退却し、打って出たシュラクサイ軍に敗走させられた。しかしその後ロクリス領に転じてロクリス軍を破り、300人の戦死者を出させた。さらにシケロイ人の協力を得てヒメラに上陸し、アイオロス諸島を攻撃してレギオンに引き上げたのち、ピュトドロスと交替して解任された。将軍は毎年改選される決まりで、紀元前425年の初めに最高指揮官がピュトドロスに替わったのである。この最初のシケリア遠征は不首尾に終わり、帰国したラケスはクレオンに告発されたが、無罪となった。この裁判はアリストパネスの喜劇『蜂』で風刺されており、史実性をうかがう主な手がかりとなっている。
紀元前424年には、スパルタの同盟国でアルゴリス半島にあるハリエイスと同盟条約を結んだ。アテナイは紀元前425年からこの地を襲っていたが、条約によってそこに守備隊を置くことが認められ、ハリエイス人は機会あるごとにアテナイ人のために力を尽くすと約束した。紀元前423年には、スパルタとの1年間の休戦を民会に提案して成功させている。なお、紀元前421年に2年間の休戦条約の締結に関わったとも伝わる。紀元前422年にクレオンが死ぬと、ニキアスとともに交渉をまとめてニキアスの和約を結び、紀元前418年にはその宣言者の一人となった。
しかし、アテナイとスパルタの両陣営は対立をやめず、和約はスパルタに反した者たちへのアテナイの支援を原因として破れた。ラケスは再び将軍に任じられ、スパルタと対立していたアルゴスへの援軍(歩兵1000、騎兵300)として、ニコストラトスとともにペロポネソス半島へ送られた。そして同年のマンティネイアの戦いで、アテナイの敗北のなか戦死した。プラトンの対話篇『ラケス』には、ニキアスとともに、ソクラテスの主要な対話相手の一人として登場する。ラケスという名はアテナイでは珍しくなく、ソクラテスが処刑された紀元前400年から399年のアルコンも、同名の別人である。ラケスの子、孫、曾孫もデモステネスの『ティモクラテス弾劾』や書簡に登場するとされ、人名事典には同名の人物が18人挙げられている。
同じ年に亡くなった人物
該当人物はまだありません。
同じ地域に関係する人物
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- ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン (1452年没)
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- スパルタのペイサンドロス (紀元前394年没)
- コスタス・カリオタキス (1928年没)