伝記
キルデベルト3世は、メロヴィング朝のフランク王である。ほかに数える方法では4世とされることもあり、「正義王」と呼ばれた。生年は683年とも678年ごろともされ、670年に生まれたとする説もある。没年は711年で、4月23日に没したとされるが、4月14日とする記述もある。父はテウデリク3世、母はクロティルダ(ドーダともいう)で、母方の伯父は宮宰のピピン2世(ヘルスタルのピピン)である。兄の跡を継いで王位に就いたとされ、在位は695年から711年とも、694年から711年ともいわれる。
王の実権は伯父のピピン2世が握り、キルデベルトは操られていたとされ、いわゆる「怠惰王」の一人に数えられる。アウストラシアの宮宰はピピン、ネウストリアの宮宰はピピンの次男グリモアルドであった。治世のうちにピピンは、ラドボド公率いるフリース人を服属させた。ただし、王が署名した多くの証書は、その活動が盛んだったことを示している。697年には、ピピンの長男ドロゴに、修道院から取った財産を返すよう命じる判決を下させた。710年には、グリモアルドが聖ドニの祭日に徴収していた通行税を修道士たちに返すよう求めている。操り人形のようでありながら、ピピン一族に不利な判決まで自らの意思で下していたことが、その文書からうかがえる。正義王という呼び名は、こうした裁判に由来するのかもしれないが、はっきりした理由は知られていない。『フランク人の歴史の書』は彼を「名高い人」、また「よき記憶の栄光ある主、正しき王キルデベルト」と呼んでいる。
697年ごろにエドンヌ(エルメネキルディスとも)と結婚し、699年ごろに息子のダゴベルト3世が生まれた。ダゴベルトが父の跡を継いだ。クロタール4世も彼の子だった可能性があるが、可能性は低いとされる。生涯のほとんどを、オワーズ川沿いの王家の館で過ごしたという。治世の708年には、アヴランシュの司教聖オベールが、大天使ミカエルに促されて、モン・サン・ミシェルの修道院を創建したと伝えられる。
711年の死後、ガリア南部は独立に向かって動き出した。ブルゴーニュはオセールの司教サヴァリクのもとで、アキテーヌはウード大公のもとで、プロヴァンスはアンテノールのもとで、それぞれ自立していったとされる。遺体はコンピエーニュ近郊、ショワジーの聖ステファヌス(サン・テティエンヌ)教会に葬られた。石棺は895年か896年ごろにノルマン人に壊されたらしい。1793年の革命期の略奪の際には、聖歌隊席の王の墓が探されて骨が見つかり、墓地に混ぜて置かれたが、それが王の遺骨かどうかは確かでない。
同じ年に亡くなった人物
- ムハンマド・ブン・マルワーン (711年(推定))
- K'inich K'an Joy Chitam II (711年没)
- ティベリオス (ユスティニアノス2世の皇子) (711年)
- ユスティニアノス2世 (711年没)
同じ地域に関係する人物
- エマニュエル・ド・グルーシー (1847年没)
- ルイ=アントワーヌ・ランヴィエ (1922年没)
- ロジェ・リヴィエール (1976年没)
- Bernard Morel (2023年没)
- アンドレイ・キビレフ (2003年没)