伝記
ダゴベルト3世は、メロヴィング朝の11代目のフランク王である。在位は711年から715年まで。699年ごろに生まれ、715年に没した。父は先王キルデベルト3世で、母はエドンヌとされる。
711年に父のあとを継いで即位したとき、ネウストリアとアウストラシア、そしてブルグンドの三つのフランク王国を束ねる立場にあった。ネウストリアとアウストラシアは、687年のテルトリの戦いでのピピンの勝利以来、統合されていた。しかし実権はすでに宮宰に移っていた。即位当時、アウストラシアの宮宰は有力者のピピン2世(中ピピン)であり、ネウストリアでは、ピピンの次男グリモアルド2世が宮宰を務めていた。王は在位中ずっと未成年だったとされ、宮宰たちが王の名で統治した。それでも、治世のあいだに多くの国王証書を発給していたことが知られている。
治世の後半には情勢が大きく動いた。714年にグリモアルドが暗殺され、その幼い子テオドアルドが宮宰の地位を継いだ。同じ年にピピン2世も世を去り、その未亡人プレクトルードが、ともに未成年だった王と宮宰の名のもとに国を率いることになった。この機にネウストリアのフランク人は反乱を起こし、キュイズの森に軍を集めて、テオドアルドのアウストラシア軍を打ち破った。ネウストリアは独立を取り戻し、ラギンフレドを新たな宮宰に立てた。ラギンフレドはフリース人の公ラドボートと結んで、アウストラシアを荒らし回った。
北でフリース人との戦いに注意が向けられていたあいだに、ガリア南部では分離の動きが現れた。オセールの司教サヴァリクは714年から715年にかけて、オルレアン、ヌヴェール、アヴァロン、トネールを支配下に置いた。アキテーヌとガスコーニュの公ウードや、プロヴァンスの太守アンテノールも、独立した領主のようにふるまった。
ダゴベルト3世は715年に病気のため死去した。年代記は、その人柄や行いについてほとんど語っていない。埋葬地も記されていないが、コンピエーニュ近郊のショワジー・オー・バックにあるサン・テティエンヌ修道院だった可能性があるとされる。その場合、墓は895年にノルマン人に破壊されたと考えられている。後の王テウデリク4世を彼の子とする記述があるが、これには疑問も呈されており、最後のメロヴィング朝諸王の系譜は不確かだとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ワリード1世 (715年没)
- コンスタンティヌス (ローマ教皇) (715年没)
- クタイバ・イブン・ムスリム (715年没)
- ムハンマド・ビン・カシム (715年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。