伝記
アンリ=バンジャマン・コンスタン・ド・ルベックは、スイス出身のフランスの小説家であり、思想家、政治家である。1767年10月25日に生まれ、1830年12月に没した。心理主義小説の先駆けとして知られる『アドルフ』が名高く、自由主義思想家としても知られる。政治評論、宗教論など多彩な執筆と政治活動を行った。
スイスのローザンヌに生まれ、父はフランス系の亡命プロテスタントの軍人だった。母はコンスタンが生まれて間もなく死去し、教育は主に祖父母と、父が雇った家庭教師によって行われた。父の軍務の関係で、オランダやイギリスなど各地を転々とした。1782年にドイツのエルランゲン大学に、1783年にエディンバラ大学に入り、2年ほどそこにいて、18歳の1785年にパリに出た。文学者や哲学者らと交わり、1786年に出会ったシャリエール夫人から、文学的な影響を受けた。1788年、北ドイツのブラウンシュヴァイク公国で、ミンナ・フォン・クラムと出会って結婚し、政治や宗教に関する著作を本格的に始め、『宗教論』を刊行した。しかし結婚生活はうまくいかず、1793年に離婚した。その年には、のちに妻となるシャルロッテ・フォン・ハルデンベルクと出会ったが、1794年に出会ったジャック・ネッケルの娘、スタール夫人との関係が深くなった。
スタール夫人は夫と別居しており、文学活動やサロンの活動をしていた。コンスタンは、多才な彼女から文学的、思想的、政治的に大きな影響を受け、1796年に愛人となった。翌年には子が生まれた。このころから実際の政治活動を始め、いくつかの選挙に出馬した。ナポレオンに権限が集中していくと、反ナポレオン的として、所属していた護民院議員を罷免され、政治家としての活動ができなくなった。夫人も反ナポレオン的な著作を理由に、1803年にフランスから追放された。コンスタンも夫人とともにドイツを訪れ、ゲーテやシラー、ヴィーラント、シュレーゲル兄弟らの文人と知り合った。しかし夫人との間は冷え切り、頻繁に言い争うようになって、別れを考えるようになった。1805年に、かねてよりの知り合いだったシャルロッテに再び近づき、1808年に結婚した。それでも夫人との関係は1811年まで完全には断ち切れなかった。
1806年ごろから小説を執筆し、これがのちに『アドルフ』となった。同年、政治哲学の大著『政治原理』も執筆した。宗教論の著作も活発に行い、敬虔主義的な様相を見せていた。1811年に夫婦でゲッティンゲンに滞在し、『わが人生』を書いた。1814年にナポレオンが没落すると、パリに戻って反ナポレオン的な著作を活発に書いた。ところが、百日天下でナポレオンが一時復活すると、一転してその政府に加わり、世の非難を浴びた。再度の没落の後、ロンドンに亡命し、『アドルフ』を出版し、『百日天下回想録』を執筆した。ルイ18世に宛てて弁明書を書いて許され、1816年に再びパリに戻った。翌1817年に、長年の愛人スタール夫人の訃報に接し、彼女についての論説を発表した。このころには、自由派の指導者の一人と目された。1818年に政治的な著作をまとめて、『立憲政治講義』を出版した。
以降、1830年まで、執筆と講演、政治活動を続け、自由主義擁護の立場から奴隷売買反対運動などを行い、民衆から熱烈な支持を受けた。最晩年には、七月革命で成立した七月王政を支持した。63歳で死去し、その葬儀は熱狂的な支持者であるパリの民衆の手で盛大に行われ、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- スティーブン・エリオット (植物学者) (1830年没)
- シモン・ボリバル (1830年没)
- アントニオ・ホセ・デ・スクレ (1830年没)
- シャルル・シモン・カテル (1830年没)
- ジャンリス夫人 (1830年没)
同じ地域に関係する人物
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- クロード・シェソン (2012年没)
- ピエール・ブロソレット (1944年没)
- アルレッティ (1992年没)
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