伝記
ニコラ・レオナール・サディ・カルノーは、フランスの物理学者、軍人、技術者である。1796年6月1日にパリで生まれ、1832年8月24日にパリで没した。仮想の熱機関「カルノーサイクル」の研究によって、熱力学第二法則の原型を導いたことで知られる。
軍人、政治家、技術者、数学者であったラザール・ニコラ・マルグリット・カルノーの長男として生まれた。サディという名は、父が心酔していた中世ペルシャの詩人にちなむ。出生当時、父は総裁政府の一員だったが、翌1797年のクーデターで一家は亡命し、父は1799年に帰国して、その後ナポレオン・ボナパルトの要請で陸軍大臣となった。父がナポレオンと会うとき、時々サディを連れて行くことがあり、4歳ごろのサディはナポレオン夫人のジョゼフィーヌから可愛がられた。父から数学、物理学、語学、音楽を教わり、少年時代から水車の仕組みなど、科学的な現象に興味を持っていたという。
数か月の入学準備を経て、1812年、17歳でエコール・ポリテクニークに入学した。ここでアンペール、ゲイ=リュサック、アラゴらに学んだ。同年10月に卒業し、メスの公務実施学校の工兵科へ進んだ。ナポレオンの失脚により、共和派の政治家であった父はマクデブルクでの亡命生活を余儀なくされた。1816年に工兵科を卒業すると、各地の要塞に派遣されて技師として活動したが、研究欲のあったサディはこうした仕事に満足できず、パリの参謀部の試験を受けて、1819年に中尉に任命された。まもなく休職し、パリやその近郊で、芸術鑑賞や楽器の演奏のかたわら、科学の研究に取り組み、各地の工場などを訪れて商工業についても学んだ。1821年にはマクデブルクの父を訪ね、弟イッポリートと3人で数週間を過ごした。その後はパリに戻って熱機関の研究を続けた。
1824年、『火の動力、および、この動力を発生させるに適した機関についての考察』を自費出版した。600部が印刷され、出版費用はカルノー自身が負担した。熱力学における画期的な論文であり、出版直後にフランス学士院で紹介された。場にはラプラス、アンペール、ゲイ=リュサック、ポアソンなど当時のフランスの著名な科学者が多数出席していたとされるが、反響はまったくなかった。この本が掲げたテーマは、熱の動力としての効率であった。当時、蒸気機関はワットにより飛躍的に発展したが、熱効率についての確固たる理論はなかった。カルノーは、熱を動力として使うとき熱効率の向上に限界はあるのか、動力を得る作業物質として水蒸気を使っていたが、熱効率はこの物質に依存するのか、という点を問題として提起した。議論の前提には、熱の本質は熱素という物質だとするカロリック説を用いた。
1826年に工兵隊に戻り、翌年に大尉となったが、軍隊の生活を嫌い、1828年に軍服を脱いで、研究を続けた。1830年の7月革命を歓迎し、研究を一時中断して民衆集会にも出かけたが、政治に直接関わろうとはしなかった。弟とどちらかを貴族院に迎える提案も、世襲を嫌った亡き父の立場を尊重して、弟とともに断っている。1832年6月、研究の途中で猩紅熱にかかり、12日間にわたり食事や睡眠も満足にできない状態になった。8月には精神病院に入院し、さらにコレラに感染して、8月24日に36歳の生涯を終えた。コレラの感染防止のため、遺品や研究結果はほとんどが焼却処分された。経歴や人となりを伝えるものは、わずかに残された彼自身のノートと、弟イッポリートが著した伝記がほぼすべてである。
同じ年に亡くなった人物
- アマーリエ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (1832年没)
- エヴァリスト・ガロア (1832年没)
- マリーア・テレーザ・ダウストリア=エステ (1832年没)
- Dorothy Ripley (1832年没)
- マリア・アンナ・カロリーナ・ディ・サッソニア (1832年没)
同じ地域に関係する人物
- シャルル・シモン・カテル (1830年没)
- ジャン=ピエール・ノルブラン・ド・ラ・グルデーヌ (1830年没)
- クロード・フランソワ (1978年没)
- Pierre Boutroux (1922年没)
- フィリップ・セガン (2010年没)