HISTORICAL PERSON · 1832年没

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

ドイツ古典主義を代表する文豪。『ファウスト』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』などを著し、ヴァイマルで活動した。

生涯
1832年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(テューリンゲン州 / ヴァイマル)
出生地
ドイツ連邦共和国(フランクフルト・アム・マイン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(テューリンゲン州)

伝記

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、1749年8月28日に自由帝国都市フランクフルト・アム・マインで生まれ、1832年3月22日に没したドイツの詩人、劇作家、小説家であり、自然科学者、政治家でもある。『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など、広い分野で重要な作品を残したドイツを代表する文豪である。

祖父はフランスで仕立て職人の修業を積んだのち、フランクフルトで旅館と葡萄酒の取引で財を成した。その次男である父ヨハン・カスパーは、大学を出て市の要職を志したがうまくいかず、枢密顧問官の称号を買って、以後は職に就かず文物の収集に没頭した。母エリーザベトの実家テクストーア家は代々法律家の声望ある家で、母方の祖父は市長を務めた。ゲーテは長男で、翌年に妹コルネーリアが生まれた。ほかに3人の子が生まれたがみな夭折し、二人兄妹で育った。少年時代は裕福で快活な生活を送り、父は子供の教育に熱心で、7歳で天然痘にかかって実家に戻ってからは、家庭教師を呼んで語学や図画、乗馬、演奏、ダンスなどを学ばせた。語学に長け、少年時代にすでに英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を習得したという。『ロビンソン・クルーソー』など手当たり次第に読み、8歳のときには祖父母に宛てた新年の挨拶の詩が残っている。

1765年、16歳でライプツィヒ大学の法学部に入った。出世を望む父の意向だったが、本人は文学研究を志していた。ロココ調の服を着て都会風の生活を送り、法学に身が入らなかった。3年ほどで病魔に襲われ、結核と見られる症状で退学し、1年半ほど実家で療養した。この間、ヘルンフート派の信者である親戚のスザンナ・フォン・クレッテンベルクと交わり、宗教観に大きな影響を受けた。自然科学にも興味を持ち、実験器具を買い集めた。1770年、父の勧めでフランス領のシュトラースブルク大学に入った。期間は一年少しと短かったが、ここで年長のヘルダーと出会い、ホメロスやシェイクスピア、民謡の価値を教えられて、疾風怒濤の運動へ進む下地をつくった。牧師の娘フリーデリケ・ブリオンと恋に落ち、「野ばら」などの抒情詩が生まれたが、結婚を望んだ彼女との関係を、自ら断ち切った。この出来事は、のちの『ファウスト』のグレートヒェンの悲劇の原型になったともいわれる。

1771年8月、学業を終えて故郷に戻り、弁護士事務所を開いたが、次第に文学活動に専念した。処女戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を書き、父の命でヴェッツラーの最高裁判所に送られた。1772年6月、舞踏会で出会った19歳の少女シャルロッテ・ブッフに熱烈な恋をしたが、彼女は友人ケストナーと婚約中で、9月に去った。そこへ友人イェルーザレムがピストル自殺したという報が届き、この二つの体験が、『若きウェルテルの悩み』の構想につながった。1773年7月に『ゲッツ』を改作して自費出版し、1774年9月に『ウェルテル』が出ると、主人公風の服装が流行し、青年の自殺者が急増する社会現象まで起こって、ヨーロッパ中に名が知られた。『ファウスト』に着手したのもこのころである。その後、ヴァイマル公国の宮廷顧問となり、シュタイン夫人との恋愛やイタリア旅行を経て古代の調和的な美に目覚め、シラーとともに古典主義の時代を築いた。『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれた。

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