伝記
ジョン・マーシャルは、1755年9月24日に生まれ、1835年7月6日に没したアメリカ合衆国の第4代連邦最高裁判所長官である。前歴として、連邦議会議員、第4代国務長官も務めた。第3代大統領トーマス・ジェファーソンとは、遠縁にあたる。1801年から死去までの約35年間、最高裁判所長官を務め、史上最長の在任記録を持ち、最も影響力のあった判事の一人とされる。
バージニア植民地ファキール郡のジャーマンタウン(現在のミッドランド)の丸太小屋で生まれた。両親は、ファキール郡で測量士・土地管理人としてフェアファックス卿に雇われ、相当の収入を得ていたトマス・マーシャルと、メアリー・ランドルフ・キースである。それでも一家は二間の丸太小屋で暮らし、ジョンは15人のきょうだいの最年長だった。幼い頃から、その上機嫌と、知性と善良さをたたえた黒い目で知られた。1年の学校教育を除くと、正規の教育は受けておらず、友人にのちの大統領ジェームズ・モンローがいた。両親に励まされ、ブラックストンの『イギリス法注解』やポープの『人間論』など幅広く読み、住み込みの牧師にも教わった。最初に牧師と家庭教師から計2年ほど教育を受け、独立戦争期にウィリアム・アンド・メアリー大学で法律の講義を3か月ほど受講した。大学では勤勉ではなかったが、論理的能力は、バージニア州の弁護士になって実務を積んでから開花したという。
独立戦争の初期には民兵に属し、1776年7月30日に第3バージニア・コンティネンタル連隊に入って大尉に昇進し、ブランディワインやジャーマンタウン、モンマスなど多くの戦いに加わった。戦後は弁護士となり、バージニア州の連邦党組織結成のリーダーとなった。その働きが中央政府に注目され、いくつかの外交ポストを提示されたが、バージニアにとどまることを選んだ。しかし1797年、フランスと交渉する三人委員会の委員職を受諾した。フランス側は交渉の代償として賄賂を要求したが(XYZ事件)、マーシャルは拒絶して国の名誉を保った。1799年に連邦議会議員に選ばれ、1800年6月6日に、第2代大統領ジョン・アダムズのもとで国務長官に就任した。公海上でのアメリカの権利への妨害に反対し、外交抗議に力を与えるため、強い海軍を必要とする政策を採用した。
1801年1月20日、アダムズから連邦最高裁判所長官に任命された。憲法解釈を通じて連邦の権限を確保し、連邦司法部と合衆国憲法の権威の確立に大きく貢献した。最も著名な判決は1803年のマーベリー対マディソン判決で、「憲法に反する法律は法ではない」という法廷意見により、違憲立法審査の原理を示した。連邦法の合憲性を判断した例はそれ以前にもあったが、違憲としたのはこれが初めてで、その理論づけを詳しく述べたところに価値がある。これで当時極めて弱体だった司法府を、立法や行政と同等の影響力を持つ独立した地位へ高める第一歩を踏み出した。以後も合衆国憲法の条項を広く解釈して、州政府に対する連邦政府の優位を確保した。
在任中に5人の大統領が替わった。就任当初はジェファーソン大統領との争いもあったが、次第に安定した判決で支持を得て、最高裁の地位を高めた。晩年は、ジャクソン大統領のもとでジャクソニアン・デモクラシーと州権論が興隆し、法的安定性と中央集権を志向する諸判決が力を失ってゆくのを目にした。高潔な人柄と、気さくで人をひきつける長所は、政敵からも賞賛され、死去の報に接した連邦政府の人々は、党派を超えた悲しみに包まれたという。
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