伝記
デイヴィッド・クロケットは、アメリカ合衆国の軍人で政治家であり、テキサスの独立を支持してアラモの戦いで戦死した国民的英雄である。一般にはデイヴィー・クロケットとして知られる。1786年8月17日に、テネシー州のノリチャッキー川近くで、ジョンとレベッカ・ホーキンズ・クロケットの9人の子の5番目として生まれた。祖先はフランスのユグノーでアイルランドに住み、のちに北米に渡った。父方の祖父の名にちなんで名づけられ、その祖父は先住民に殺された。十分な教育は受けられなかったという。のちの自伝によれば、3歳で熊を退治したというが、これは完全な作り話とされ、神話の色合いを帯びている。
学校に通い始めて間もなく、同級生を殴り、厳格な教師の叱責を避けて登校をやめた。教師から手紙を受けた父は、学費が無駄になったとして怒り、息子の言い分を聞かなかった。殴られるのを恐れて家出し、数年間、町から町へ放浪し、この間にテネシーの多くの町を訪れて、狩猟や罠猟の腕を磨いたと本人は語っている。19歳の誕生日のころ、ひそかに帰宅すると、家族は父も含めて喜んで迎えた。1806年8月12日にポリー・フィンリーと結婚し、3人の子をもうけた。ポリーの死後、1816年に未亡人エリザベス・パットンと再婚し、さらに3人の子を得た。1813年にはテネシー州の民兵として、のちの大統領アンドリュー・ジャクソンのもと、先住民討伐のクリーク戦争に従軍した。同年9月24日に90日間の志願騎馬射手連隊に入り、南のアラバマへ進んで戦い、1815年3月に任を解かれた。1818年に民兵連隊の中佐となった。
1821年にテネシー州議会の議員に選ばれ、1826年、1828年、1832年にはテネシー州から合衆国下院議員に当選した。1830年は落選した。議員としては、西部の土地の購入から排除された不法占拠者の権利のために尽力し、ジャクソン大統領の先住民移住法に強く反対した。この反対が1830年の落選の一因とされ、1835年にも落選した。政府の浪費を厳しく批判し、議員が税で他人を助けることを戒めた演説でも知られる。1833年に自伝を出版して一躍有名人となった。西部開拓地の型破りな人気者というイメージは同時代からあり、皮の帽子「クロケット帽」を好んでかぶった。選挙では、集まった群集に酒を求められ、金がないのでアライグマの毛皮をラム酒と何度も交換して喜ばせたという逸話があるが、逸話にすぎない。
下院議員時代に親交を深めたサミュエル・ヒューストンにも影響され、1836年1月14日にテキサス暫定政府との書類に調印して、テキサス革命に正式に参加した。2月6日にアラモの守備のためにサンアントニオへ着いた。2月23日に始まった戦いでは、指揮官ウィリアム・トラヴィスのもと、教会前の木柵の防御を受け持った。ジェームズ・ボウイの病状が悪化し、援軍も来なかったため、3月6日にアラモは陥落した。クロケットはメキシコ大統領サンタ・アナに捕らえられて処刑されたとされ、49歳であった。その後、彼の物語は何度も映画化され、歌にもなり、アメリカの民衆的な英雄の代表格となった。
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