HISTORICAL PERSON · 1836年没

エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス

フランスの聖職者・政治家。『第三身分とは何か』を著してフランス革命を後押しし、国民議会の設立に関わった。総裁の一人としてナポレオンとブリュメール18日のクーデターを起こし、臨時統領となった。

生涯
1836年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(フレジュス)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスは、フランス革命の指導者で政治家、聖職者であり、アベ・シエイエスとも呼ばれる。1748年5月3日に、南仏のフレジュスで生まれ、1836年6月20日に没した。徴税人の子で第三身分の出身にあたり、家は貴族の血筋を称したが平民だった。5番目の子で、家庭教師やイエズス会士に初等の教育を受けた後、ドラギニャンの修道会学寮で学んだ。軍人を志したが、病弱だったために断念し、信心深い両親の期待もあって、聖職の道に進んだ。父への義理から、フレジュスの司教総代理が助力した。

パリのサン=シュルピス神学校で10年を過ごし、神学と工学を学んだ。科学への適性で評判を得ていたが、伝統的な神学を嫌い、新しい哲学の原理に没頭した。ロック、ヒューム、ヴォルテール、ルソー、ディドロらの思想に傾いた。1770年に最初の神学の学位を取ったが、合格者の最下位で、宗教教育への反感の表れとされる。1772年に司祭に叙階され、2年後に神学の学士号を得た。すぐには職が得られず、哲学の研究と音楽に過ごし、有力な友人の働きかけで、1774年にブルターニュの聖堂参事会員の地位を約束された。1775年末にトレギエ司教の秘書となり、ブルターニュの身分制議会で特権階級の強大な力に嫌悪を覚えた。1780年に司教がシャルトルへ移ると同行して司教総代理となり、のちに参事会員、司教区の法務官にもなった。貴族が聖職の昇進で平民より有利なことに憤った。聖職を選んだのは信仰のためではなく、政治評論家として進むための唯一の手段と考えたからだとも言われる。1788年にオルレアン州議会の聖職者身分の議員となり、この年『特権論』を発表した。

1788年、国王が全国三部会の招集を提案し、ネッケルが作家たちに意見を求めたことが、機会となった。1789年1月に出した『第三身分とは何か』は、フランスにおける第三身分こそが、国民全体の代表に値すると訴え、この言葉が革命を後押しした。作者は聖職者として第一身分に属したが、パリの第三身分代表の最後の一人として三部会に選ばれた。6月17日に国民議会を設立し、人権宣言の最終的な起草にも関わった。8月に貴族の特権が廃止されたとき、貴族に補償金を払うべきだと提案したが、他の第三身分の議員に却下された。

ジャコバン派が権力を握った恐怖政治の時代には、ルイ16世の死刑に一票を投じるなどして、逼塞して生き延びた。「革命のモグラ」と名づけたロベスピエールを非常に恐れ、ロベスピエールが処刑された後に「私は生きた」と述べたことに、その恐怖がうかがえるという。1795年に公安委員会に入って政界に復帰し、国民公会の議長になったが、総裁政府に入るのは拒んだ。その後プロイセン駐在の大使を務め、1799年に帰国して総裁の一人となり、強い政府をつくるため、軍に人気のあったナポレオンに近づいて、ブリュメール18日のクーデターを起こした。臨時統領の一人となったが、軍事力を持つナポレオンに主導権を奪われ、実権のない元老院議長に棚上げされた。1808年に帝国伯爵位を与えられたが、王政復古で国外追放となった。七月革命後に帰国し、パリで没してペール・ラシェーズ墓地に葬られた。

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