HISTORICAL PERSON · 1838年没

シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール

フランス革命から七月王政までの政治家・外交官。ウィーン会議ではブルボン家代表となり、正統主義を唱えて巧みな外交でフランスの国益を守った。首相・外相・大使を務め、メートル法の提案者ともいわれる。

生涯
1838年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールは、1754年2月2日にパリで生まれ、1838年5月17日に没したフランスの政治家であり、外交官である。フランス革命から第一帝政、復古王政、七月王政まで政治の中枢にあり続け、ウィーン会議ではブルボン家の代表となった。日本では一般に「タレーラン」と略される。

シャルルマーニュの末裔ペリゴール伯爵の直系を自称する名門貴族の家に生まれた。幼少から洗練された作法を仕込まれた。足に障害があったため、父の職である連隊長を継ぐことができず、父の指示で聖職者の道に進んだ。そのため家督を継ぐ立場も、弟に譲ることになった。パリのサン・シュルピス神学校とソルボンヌで神学を修め、1775年にランスのサン・ドニ修道院長となり、1779年に司祭に叙階された。反ローマ的な風潮の強いフランスの教会の中でも、ガリカニスムの急先鋒として知られた。一族の影響力で順調に出世し、1788年にルイ16世によってブルゴーニュのオータン司教に任ぜられた。

1789年に三部会の聖職者代表に選ばれ、自らが司教でありながら、教会財産の国有化を推進した。メートル法を国民議会に提案したのも彼だといわれる。1790年に国民議会議長に選出されると同時に司教職を辞したが、教皇ピウス6世からそれまでの行為を咎められ、破門された。1792年に外交使節としてイギリスに派遣されたが、フランスで恐怖政治が吹き荒れたため、そのまま亡命し、アメリカ合衆国へ渡った。1796年に帰国し、当時の愛人スタール夫人の推薦で総裁政府の外務大臣となったが、1799年に辞した。ナポレオン・ボナパルトのブリュメール18日のクーデターに加わり、成立した統領政府で再び外務大臣となって、リュネヴィルの和約とアミアンの和約の成立に貢献し、ナポレオンから高く評価された。1803年にはナポレオンの指示でヴァランセ城を購入し、外国の賓客の接待に使った。皇帝即位後は侍従長も兼ねたが、ヨーロッパの勢力均衡を図る彼の考えと、ナポレオンの征服拡大とは相容れず、1807年に外相を辞した。その後も、ジョゼフ・フーシェとともにナポレオンの失脚を企てたとされる。

1814年にナポレオンが失脚すると、連合国に請われて臨時政府の代表となり、ルイ18世の即位後は再び外務大臣となってウィーン会議に出席した。会議では正統主義を唱え、列強の利害の対立を利用して、巧みな外交手腕でフランスの国益を守った。百日天下ののち一時は首相となったが、過激な王党派に革命期の政治活動を非難されて失脚した。1830年の七月革命ではルイ・フィリップの即位に貢献し、この年から1834年までイギリス大使を務めた。1838年、肺壊疽で死去し、居城だったヴァランセ城近くの礼拝堂に埋葬された。

「金儲けに励んでいないときは陰謀を企んでいる」と酷評され、ルイ16世、総裁政府、ナポレオンらとの関わりを次々に捨てたことから、「裏切りの天才」とも呼ばれた。一方で、敗戦国の立場でありながら戦勝国に要求をのませた敏腕の外交家として評価は高く、メッテルニヒと並び称される。ナポレオンは、互いに才能を認めながらも親しくはなかった彼を、「絹の靴下の中の糞」とこき下ろしたことがある。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物