伝記
フレデリク6世は、1768年1月28日にコペンハーゲンのクリスチャンスボー宮殿で生まれ、1839年12月3日に没したデンマーク国王である。在位は1808年から1839年で、1808年から1814年まではノルウェー王も兼ね、デンマーク=ノルウェーの最後の国王となった。1784年から即位まで、父に代わって摂政を務め、「摂政王太子」と呼ばれた。標語には「神と正義の大義」を選び、慣例のラテン語ではなくデンマーク語を用いて、後の王たちの先例となった。
父クリスチャン7世と王妃カロリーネ・マティルデの第一子であり、二人きょうだいの唯一の男子であった。父は統合失調症が疑われる重い精神的障害を抱えていて、宮廷は陰謀と権力争いに揺れた。王の侍医で急進的な思想家ヨハン・フリードリヒ・シュトルーエンゼーが、1770年から1772年まで事実上の摂政となって実権を握り、王妃とも親しくなった。1769年の天然痘の流行のとき、王太子に種痘を施して成功し、王妃の信頼を得たからである。幼い王太子は、シュトルーエンゼーが推し進めたルソーの教育論にもとづく厳しい方針で育てられた。1772年1月17日、王太后ユリアーネ・マリーの陰謀による宮廷クーデターでシュトルーエンゼーは倒され、のちに処刑された。国王夫妻は離婚し、王妃は国外に追放された。4歳の王太子は、母に二度と会うことがなかった。
1784年に摂政となり、宰相ベルンシュトルフの補佐によって、1788年の農奴制の廃止を含む、広範な自由主義の改革を行った。父王は国政にほとんど関わらなかった。1790年には従姉でヘッセン=カッセル家のマリー・ゾフィーと結婚し、8人の子を得たが、成人したのは娘のカロリーネとヴィルヘルミーネの二人だけだった。息子はみな早世し、彼の死後は従弟のクリスチャン8世が王位を継いだ。愛妾フレデリケ・ダンネマンとの間にも子があり、公式の愛妾を持った最後のデンマーク王となった。1801年と1807年には、イギリスがデンマーク艦隊を攻撃した。前者は、コペンハーゲンの海戦として知られる。1809年にスウェーデンの王家が断絶しそうになると、次の国王になることに関心を示したが、スウェーデンの国民が望み、ナポレオンも認めたベルナドット元帥が選ばれて、断念せざるを得なかった。
ナポレオン戦争の間は中立を保とうとしたが、イギリスの攻撃の結果、ナポレオンとの同盟に追い込まれた。ロシア遠征の失敗後、連合国は対仏大同盟への参加を求めたが、王はこれを拒んだ。歴史家の多くは、王の頑迷さや誤った忠誠のためとするが、近年は、穀物の輸入に頼るノルウェーを守るためだったとして再評価する見解もある。1814年の敗戦でキール条約が結ばれ、デンマークはノルウェーを失った。以後は、王太子時代の自由主義を諦め、権威主義的で反動的な路線をとり、あらゆる反対への検閲と抑圧が、不況に苦しむ国の治世を暗くした。1830年代に不況は和らぎ、1834年から、議会の開設による民主的な刷新をしぶしぶ受け入れた。国王として初等学校の導入や身分制議会の創設、ユダヤ人への市民権の保障も行った。天文学の保護者として、1832年には望遠鏡で彗星を発見した者に金メダルを授ける賞を提唱した。
同じ年に亡くなった人物
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