伝記
李林甫は、唐の玄宗の時代の政治家である。683年に生まれ、天宝11載(753年)に没した。唐の宗室の出身で、隴西郡の人、幼名は哥奴という。高祖李淵の従弟にあたる長平王李叔良の孫で、絵の名手として知られた李思訓の弟、李思誨の子である。音律と絵画によく通じ、母方の叔父の姜皎に深く愛されたと伝わる。『李林甫外伝』によれば、20歳まで書を読まず、狩猟や蹴鞠に明け暮れたが、従叔父のもとを訪ねて才能を認められ、官職に就いたという。
開元14年(726年)には御史中丞として張説の弾劾に加わり、のち刑部侍郎、吏部侍郎を歴任した。表面は柔和ながら計算高く、宦官や后妃の家と結んで玄宗の意向を探ったので、奏上はことごとく意にかない、信頼を得たと伝わる。玄宗の寵愛を受ける武恵妃と結び、その子の李瑁の後ろ盾になると誓ったことで黄門侍郎に抜擢されたとも言われる。開元22年(734年)に礼部尚書となり宰相に就いたが、張九齢の反対を受け、以後この人物と対立した。
張九齢が牛仙客の登用に猛反対して玄宗の怒りを買うと、李林甫は「張九齢は書生で大きな道理に通じていない」と述べて玄宗に取り入った。皇太子李瑛らの廃立が議された際、張九齢が強く反対する一方で、李林甫は「これは主上の家事であり、他人の口出しすることではない」と宦官に漏らした。さらに厳挺之をめぐる贈賄事件にからめ、朋党を組んだとして張九齢と裴耀卿の実権を奪った。以後、朝臣は保身に走って直言する者がいなくなったという。李林甫は諫官を集め、「杖の側に立つ馬は、一声鳴けば追い出される」と言い渡したと伝わる。
739年には吏部尚書を兼ねて人事権を握り、742年に右相となった。玄宗の気に入りの人物を次々に遠ざけ、744年には、玄宗が高力士に政治の全てを李林甫に委ねようかと問うほどの信頼を得た。746年には扱いやすい陳希烈を宰相にし、国事はすべて自邸で決めた。同年からの数年間、皇太子李璵の周辺の人物や気に入らない人物を陥れ、杜有隣らは処刑され、韋堅、李邕らは左遷のうえ殺され、李適之らは自殺に追い込まれた。連座した家は数百にのぼったという。人材を集める試験を厳しくさせて合格者を一人も出さず、野に遺賢なしと祝賀したという話も残る。一方で、節度使に安禄山、哥舒翰、高仙芝ら蕃将を用いるよう上奏し、玄宗が同意した。これが後の安史の乱の遠因になったと言われる。また737年には唐律と注釈書『疏議』を完成させ、738年には『大唐六典』の注の編集者になっている。
しかし750年ごろから、楊貴妃の親族の楊国忠が台頭して李林甫と争い、腹心の王鉷が罪に連なって死刑となった。楊国忠は李林甫が反乱に関わったと誣告し、玄宗は彼を疎んじるようになった。病が重くなった李林甫は、呼び戻された楊国忠に涙ながらに後事を託して世を去り、太尉・揚州大都督を追贈された。翌年、楊国忠らが再び共謀を訴え、婿の楊斉宣の証言もあって、官職を剥奪され庶民に落とされた。子孫は配流され、財産は没収された。「口に蜜あり腹に剣あり」と評され、奸臣の代表とされる。刺客を恐れて外出には百人以上の護衛を連れ、家の中では門や壁を幾重にもして夜ごと寝床を変えたとも伝わる。息子は李岫ら25人、娘は25人いたと伝わる。なお、開元年間末に日本僧の栄叡と普照のために渡航の便宜を図り、それが鑑真招致につながったとされる。