伝記
ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフは、1814年10月15日(ユリウス暦10月3日)にモスクワで生まれ、1841年7月27日(ユリウス暦7月15日)に亡くなった帝政ロシアの詩人で作家である。スコットランドからロシアに移住した零細貴族の子孫とされ、祖先の一人は有名な弾唱詩人だといわれる。父ユーリは軍職を選び、大尉に昇進した後、有力貴族の女子相続人である16歳のマーリヤ・アルセーニエワと結婚した。母方の祖母エリザベータは、この結婚を失敗と見なし、婿をひどく嫌っていた。夫婦の仲はすぐに悪くなり、肺病にかかった母マーリヤは、1817年2月27日に21歳で亡くなった。
父と祖母は残されたミハイルを巡って争い、最終的には祖母の意見が優先された。祖母は自分の手で養育することを条件に遺産の相続を約束し、16歳になるまで孫を祖母のもとに留めることで双方は合意した。3歳で父と離別し、溺愛する祖母と多くの親族に甘やかされる贅沢な暮らしが始まった。幼い心に傷を残したこの不和は、のちの1830年に書き上げた戯曲『人間と情熱』の原型となった。祖母は孫に最高の教育を施し、幼いレールモントフはフランス語とドイツ語の素養を身につけ、楽器の演奏や絵画にも才能を示した。しかし病弱で、悪性リンパ腫(瘰癧)とくる病に苦しんだ。1819年と1820年、1825年の3回、療養のため祖母に連れられてカフカース地方を旅し、3回目には9歳の少女に初恋を経験した。父との接触を祖母が厳しく制限したため、孤独で引っ込み思案に育った。
1827年に祖母とモスクワへ移り、1828年にモスクワ大学付属貴族学校に入って、このころから詩作を始めたと考えられている。バイロンを熱心に読み、いとこのエカテリーナには「バイロンの大量の著作と結婚した」と評された。1830年に同人誌で発表した短い詩「春」が、出版物でのデビュー作となった。同年8月にモスクワ大学に入ったが、ベリンスキーやゲルツェンなど後に名を馳せる同窓生と交流せず、急進派の学生グループにも加わらなかった。最初の一年は、父の死という過酷な喪失で締めくくられ、しばらくの間、真剣に自殺を考えた。この時期に「帆」などの詩を書き、後世に傑作と見なされた。ある教授と対立して退学を勧告され、1832年6月に大学を中退した。
ペテルブルクに移ってペテルブルク大学への編入を試みたが、単位を認められず、近衛士官学校に入学した。士官学校時代の2年間を「恐怖の2年間」と呼び、飲酒やカードなどの放蕩に耽りながらも、文学との関わりは保った。1834年に卒業し、ツァールスコエ・セローの近衛騎兵連隊に配属された。上流社会に嫌気がさして創作を再開し、1835年に戯曲『仮面舞踏会』を書き上げたが、上流社会の偽善を暴いたため、上演は許可されなかった。1837年に詩人プーシキンが決闘で亡くなると、詩『詩人の死』を書き、その才能を称賛するとともに、死を招いた上流階級を痛烈に批判した。この詩は筆写によって全国に広がったが、皇帝ニコライ1世の側近を弾劾したとして、逮捕、投獄され、約1年間カフカースに左遷された。流される途上のピャチゴルスクで、『商人カラーシニコフの歌』を作った。カフカースでは、山岳民族やデカブリスト、ジョージアの知識人と出会い、視野を広げ、独立のために戦うカフカースの人々に強い共感を覚えた。
同じ年に亡くなった人物
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