伝記
安禄山は、唐代の軍人で、大燕国の皇帝となった人物である。本姓は康で、父はサマルカンド出身のソグド人、母は突厥系の混血とされる。「禄山」は光を意味するソグド語の音訳である。唐の玄宗に対して安史の乱を起こしたが、最後は次男の安慶緒に殺された。
営州の柳城の出身とされる。父は早くに亡くなり、母は突厥のソグド人有力者安延偃と再婚した。開元年間初期の十代の頃、突厥の混乱で一族とともに唐へ亡命し、従兄弟の安思順と兄弟の契りを結んで、養父の姓をとって安禄山と名乗った。六つの言語に堪能だったため、初め貿易官に任じられた。開元20年(732年)に幽州節度使の張守珪に取り立てられ、同郷の史思明と数騎で出ては必ず捕虜を連れ帰り、偏将となって張守珪の養子にもなった。宰相の張九齢は彼を見て、幽州で反乱が起きるならこの胡人だろうと語ったと伝えられる。開元24年(736年)には奚・契丹の討伐で敗れ、死刑にされかけたが、張九齢の死刑論を玄宗は受け入れず、許された。
その後は賄賂で評判を整え、玄宗の信任を得て昇進を重ねた。天宝元年(742年)に平盧節度使となり、天宝2年(743年)の入朝では、営州の蝗害に際して天に祈ると鳥が蝗を食べ尽くしたと上奏して玄宗を喜ばせた。天宝3年(744年)には范陽節度使を兼ねた。天宝6年(747年)ごろには楊貴妃の養子になることを願い、入朝すると玄宗より先に楊貴妃に拝礼し、胡人は母を先にするからだと答えた。皇太子李亨の忠告は聴かれなかった。范陽の北に雄武城を築いて曳落河と呼ぶ勇士や軍馬を集め、王忠嗣が謀反を警告したが、王忠嗣のほうが失脚した。天宝9年(750年)に東平郡王となり、奚・契丹の酋長を毒酒で酔わせて数千人を穴埋めにすることが四回あったと伝えられる。天宝10年(751年)には入朝して楊貴妃の赤子を演じ、玄宗を喜ばせて宮中に自由に出入りし、河東節度使も兼ねて范陽・平盧・河東の三節度使となった。同年、契丹との戦いでは大敗し、安慶緒に救われて逃げた。楊国忠が反乱の可能性を何度も上奏したが、天宝12年(753年)には調査に当たった宦官の輔璆琳が賄賂を受けて忠誠を伝えた。天宝14年(755年)には楊国忠との対立が深まり、玄宗の召しにも病と称して赴かなくなった。
同年11月、楊国忠を討てとの密命を受けたと称して范陽で挙兵し、同羅・契丹など15万の兵を20万と号して洛陽へ向かった。玄宗は長男の安慶宗と妻の康氏を処刑した。12月に洛陽を落とし、高仙芝と封常清は潼関へ退いたが、讒言と退却の罪で処刑された。河北では顔杲卿・顔真卿らが応戦して17郡が呼応したため、潼関への攻撃をやめて引き返した。756年正月、洛陽で雄武皇帝として即位し、国号を燕、元号を聖武とした。しかし史思明が郭子儀・李光弼に敗れ、河北の十数郡が唐に奪われた。
窮地を救ったのは唐の内紛だった。同年6月、楊国忠が玄宗を説いて哥舒翰を潼関から出撃させたが、その軍は崔乾祐の伏兵に全滅させられ、哥舒翰は降伏した。安禄山は彼を司空に任じたが、勧告に誰も応じないと知ると監禁した。玄宗は長安を捨てて蜀へ逃れ、途中で楊国忠は唐の兵に殺された。孫孝哲らが長安に入ったが、略奪に夢中で玄宗らを追撃せず、安禄山が楽人や舞馬、犀、象を洛陽に集めさせて民間の物まで略奪させたため、関中の豪族が唐側に立って決起し、唐は態勢を立て直した。没年は757年とされる。
同じ年に亡くなった人物
- アルフォンソ1世 (アストゥリアス王) (757年没)
- ステファヌス2世 (ローマ教皇) (757年没)
- イスマーイール・イブン・ジャアファル (757年(推定))
- シゲベルト (ウェセックス王) (757年)
- エゼルバルド (マーシア王) (757年没)