伝記
スタンダールは、グルノーブル出身のフランスの小説家・評論家である。本名はマリ=アンリ・ベール。1783年1月23日に生まれ、近代小説の開祖の一人とみなされている。筆名スタンダールは、美術史家ヴィンケルマンの生地であるドイツの小都市シュテンダルに由来するという説が有力である。ほかに、ボンベなど百を超える筆名を使い、友人にも仮名をつけた。作品に、主人公ジュリアン・ソレルで有名な『赤と黒』のほか、『パルムの僧院』、評論『恋愛論』がある。
グルノーブル高等法院の弁護士シェルバン・ベールの子として生まれた。母方の実家も地元の名士で、幼少期は何不自由なく暮らした。7歳のときに亡くなった母を終生、偏愛し続け、その反動で、実務家で王党派の父を激しく憎んだ。そのため、父とは正反対のロマンチストの共和主義者として、その後の生涯を送った。父は、1794年に恐怖政治の下で王政を擁護したため投獄されたという。母方の祖父アンリ・ガニョンは医師で、深く敬愛した。1796年にグルノーブルの中央学校で学び、数学で高い評価を得た。父の期待を受けて理工科学校を目指して1799年にパリに出たが、慣れない生活でノイローゼになり、母方の親戚ダリュの家に引き取られた。ダリュの息子が陸軍省の事務次官を務めていた関係で、ダリュの口利きにより陸軍少尉に任官し、イタリア遠征に参加した。母方のガニョン家がイタリア系だったこともあり、イタリアに憧れていた彼は、遠征先を気に入り、以後、第二の故郷とみなすようになった。祖国フランスは父のイメージと重なるためか、生涯好きになれなかった。
軍人となったが、実際には馬に乗ることも剣を振るうこともできず、もっぱら女遊びと観劇にうつつをぬかしていたといわれる。1802年に軍を辞め、輸入問屋に勤めたが、大陸封鎖令で海外貿易が途絶えたため、1806年にダリュを頼って陸軍主計官補の仕事を得た。その後は官僚として順調に出世し、1810年には帝室財務監査官にまで昇進した。しかしナポレオンの没落とともに、自身も没落した。以後はフリーのジャーナリストとして活躍し、イタリアに渡って現地の自由主義者と親交を結んだが、やがて「フランスのスパイだ」という噂が広まり、失意のうちにフランスに帰国した。
不遇の時代に、1822年、39歳で『恋愛論』を発表し、1830年に『赤と黒』を発表した。元神学生による殺人未遂事件を素材に、野心に燃える青年の成功と挫折を描いたこの作品は、当時は評判にならなかったが、王政復古下のフランス社会を鋭く批判していた。生前の評判は、芸術や旅行についての著作や、政治的な文章、会話の機知に基づいており、小説家としての天才を認めたのは、当時はバルザックだけだった。1830年に七月革命が起こると、自由主義者として知られた彼に、再び政治の世界から声がかかり、トリエステ駐在のフランス領事に任命されたが、オーストリアの宰相メッテルニヒの承認が得られず、教皇領チヴィタヴェッキアの領事に転じた。1836年から39年まで休暇をとってパリに戻り、『パルムの僧院』を書いた。
1842年3月23日、パリの街頭で脳出血のため倒れ、亡くなった。墓はパリのモンマルトル墓地にあり、自ら選んだ墓碑銘には、「ミラノ人アッリゴ・ベイレ 書いた 愛した 生きた」と刻まれている。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・セル・コットマン (1842年没)
- ヘンリー・シュラプネル (1842年没)
- ヴォイチェフ・アダルベルト・ジヴヌィ (1842年没)
- ボン・アドリアン・ジャノー・ド・モンセー (1842年没)
- Alexandre-Vincent Pineux Duval (1842年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジュール=ピエール・ヴェロー (1873年没)
- アルベール・トーマ (1932年没)
- ニコラ・リュクネール (1794年没)
- ジョルジュ・オーリック (1983年没)