伝記
オトマル(オトマール、アウドマールとも。689年〜759年)は、中世のスイスで活動した修道士・司祭で、ザンクト・ガレン修道院の初代の修道院長とされる人物である。フランス語圏では、同修道院の「第二の創設者」とも見なされている。
オトマルはアレマン人の出身で、幼いころ兄に連れられてクールへ行き、レティア伯ヴィクトルに仕えながら教育を受けたとされる。のちに司祭に叙階され、聖フロリヌスに捧げられた教会を任された。評判が広まると、トゥールガウの領主ヴァルトラムが、自分の領地にあった聖ガルスの庵室を彼に委ねた。720年のことである。庵室とガルスの墓のまわりには数人の隠修士が暮らしていたが、オトマルはこれらの修道士をまとめて一つの修道院とし、初代の院長になった。当初はコルンバヌスの会則に従ったが、747年にはアレマニアの教会改革の流れの中でベネディクトの会則を導入し、この会則は1805年に修道院が世俗化され閉鎖されるまで続いた。病院と学校も加えられ、のちの有名な修道院図書館の土台になったという。ただし、オトマルの時代の修道院はごく質素なもので、建物は次の世紀の初めにすべて建て直されたと考えられている。
オトマルは周辺の人々の暮らしにも心を配った。修道院の近くに貧しい人のための救貧院と、現在のスイスで最初とされるハンセン病者の施設を設け、ほかにもフランスやドイツに同様の施設をつくった。伝記には、彼が自ら病人の世話をし、夜に修道院を出て患者の傷を洗ったこと、移動にはラバしか使わなかったこと、震える貧者を見ると自分の上着を脱いで与えたことが語られている。ピピン王のもとを訪れた際には銀七十リーブルを贈られたが、宮殿を出るとすぐに貧しい人々に配り、同行の修道士たちにたしなめられて少額だけを手元に残し、近くの土地を買ったという。747年にカールマンが王位を退いたとき、彼はザンクト・ガレンのオトマルを訪ね、弟ピピンへの紹介状を渡した。オトマルはこれを自ら届け、手厚く迎えられたとされる。
晩年は苦難の中で終わった。759年、伯ヴァリンとルオドハルト(ルトハルト)がザンクト・ガレンの財産を奪おうとし、オトマルはこれに恐れず抵抗した。フランス語圏の伝えによれば、オトマルはピピン王に訴えて、伯たちに奪ったものを返すよう命じる王の言葉を得たが、伯たちは従わなかった。コンスタンツへ向かう途中で捕らえられた彼は、ボードマン城に幽閉され、その後ライン川のヴェルト島へ移されて、およそ半年の拘禁の末にそこで亡くなり、葬られた。伯らが一人の修道士ランベルトを抱き込み、院長が女性に暴行したという偽りの訴えをさせたとも伝わる。ボードマン城では、修道士ペラゴスが夜のうちに食べ物を届けたという。
オトマルの崇敬は死後まもなく広まり、モーリスやガルスに次いでスイスで人気の高い聖人の一人になった。769年に遺体はザンクト・ガレン修道院へ移された。湖を舟で運ぶ際、暑さで渇いた漕ぎ手たちが飲んでも、一つだけ残った酒樽は空にならなかったという伝説があり、樽は彼の持ち物となった。864年にコンスタンツ司教ザロモン一世が崇敬を公式に認め、867年には聖オトマル教会に厳かに安置された。祝日は11月16日で、美術ではベネディクト会の院長の姿で小さな樽を手にした姿に描かれる。ザンクト・ガレンの大聖堂はガルスとオトマルに捧げられ、10世紀にはヴェルト島に記念の礼拝堂が建てられた。スイスのハンドボールクラブにも、その名が冠されている。
同じ年に亡くなった人物
- オズウルフ (759年没)
同じ地域に関係する人物
- コンラート1世 (ツェーリンゲン公) (1152年没)
- ヴォルフガング・イーザー (2007年没)
- レオポルト・ルジチカ (1976年没)
- オルタンス・ド・ボアルネ (1837年没)
- マクシミリアン・フォン・エーデルスハイム (1994年没)