HISTORICAL PERSON · 1843年没

フリードリヒ・ヘルダーリン

ドイツの詩人・思想家。小説『ヒュペーリオン』や賛歌・頌歌を書き、古代ギリシアへの傾倒から生まれた作品はニーチェやハイデッガーにも影響を与えた。

生涯
1843年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州 / テュービンゲン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ラウフェン・アム・ネッカー)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州)

伝記

ヨハン・クリスティアン・フリードリヒ・ヘルダーリンは、1770年3月20日、ネッカー河畔の町ラウフェンに、尼僧院の説教師の長男として生まれたドイツの詩人、思想家である。父は2歳3か月のときに卒中で亡くなり、2年後に母が官吏ゴックと再婚して一家はニュルティンゲンに移ったが、この義父も結婚から7年後に高熱で世を去った。ニュルティンゲンのラテン語学校に通ったのち、国家試験を経てデンケンドルフ、続いてマウルブロンの神学校に学んだ。ここではシラーらの詩を読んで自らも多くの詩を作り、とくにシラーの詩風と美学論文から大きな影響を受けた。

1788年にテュービンゲン大学神学校へ入り、同級生のヘーゲル、シェリングと親交を結んだ。三人はカント、ライプニッツ、スピノザの哲学を学び、ヤコービの『スピノザ書簡集』を通じてスピノザの汎神論に感銘を受けた。1789年にはフランス革命に感動し、「自由賛歌」などの長詩を書いている。1791年にはシュトイドリーン編の詩神年鑑に「調和の女神への賛歌」などが載り、詩人としてデビューした。1793年に大学を卒業すると聖職に就くことを拒み、シュトイドリーンの推薦でシラーに紹介され、その友人の息子の家庭教師となった。教師をしながら小説『ヒュペーリオン』の執筆を進め、1794年にはイェーナでフィヒテの講義を聴いて、シラーやゲーテとも知り合った。

1796年にはフランクフルトの銀行家ゴンタルトの長男の家庭教師となった。この家の夫人に強い愛情を抱き、彼女は『ヒュペーリオン』に登場する運命の女性ディオティーマのモデルになったとされる。この時期にシェリング、ヘーゲルと再会し、「ドイツ観念論最初の体系計画」と呼ばれる論文断片を共同で書いた。しかし恋愛が主人にも気づかれ、1798年に職を辞してホンブルクに移り、戯曲『エンペドクレス』の執筆に着手した。1801年にはスイスやフランスで相次いで家庭教師の職に就いたが、いずれも長続きしなかった。1802年に帰国したときには心身ともにやつれ、友人にも本人と分からないほどだったという。このころから重い発作に見舞われるようになり、6月には愛したズゼッテの死の報を受けて衝撃を受けた。その後は実家でソポクレスとピンダロスの翻訳に没頭し、賛歌を多く書いた。

1805年、支えてくれた友人ジンクライルが選帝侯暗殺計画に加担した疑いで逮捕され、本人にも捜査が及んだが、精神鑑定の末、狂気を理由に逮捕を免れた。このとき「自分はジャコバン派なんかじゃない」と何度も叫んだと伝えられる。1806年夏ごろには異常な言動が目立ち、テュービンゲン大学の精神科に入院したが、8か月後に回復の見込みなしとされ、『ヒュペーリオン』の読者だった家具職人ツィンマーに引き取られた。川に面した半円形の塔の部屋で詩作を続けながら、その後の生涯をここで過ごした。1843年6月7日、胸水腫のため塔の自室で没した。

生前の詩集は1826年の1冊だけで、同郷の詩人たちの手で出版された。同時代にはゲーテやシラーから表現の冗長さや主観性を批判される一方、シュレーゲルらロマン派の人々は高く評価した。20世紀に入るとゲオルゲ派の詩人たちが散逸していた手稿を集め、狂気の産物とも見なされた後期の詩を本格的に収めた全集を編んだ(1913年〜1923年)。ニーチェは青年期に『ヒュペーリオン』を読んで感銘を受け、ハイデッガーは「詩人の詩人」と呼んで1934年から10年にわたりヘルダーリンの著作に向き合った。日本でも伊東静雄や三島由紀夫らが関心を寄せた。

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