伝記
カール14世ヨハンは、スウェーデン=ノルウェー連合王国の国王で、在位は1818年から1844年である。ノルウェーではカール3世ヨハンと呼ばれ、現在まで続くスウェーデン王家ベルナドッテ朝の始祖である。元はフランスの平民出身の軍人、ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドットであった。1763年1月26日に、フランス南部ベアルン地方のポーで、5人兄弟の末子として生まれ、1844年3月8日に没した。父アンリは街の裁判所に勤める事務弁護士で、母ジャンヌ・ド・サン=ジャンは近郊の名家の出身である。未熟児で生まれたため、洗礼は後日に延ばされた。地元の修道院で教育を受け、15歳で法律家のもとへ見習いに出た。
1780年3月に父が死んで一家が経済的苦境に陥り、同年9月にフランス王国海軍の連隊に入隊した。長く下士官として務め、背が高く細身で、「美脚軍曹」とあだ名された。1790年2月には、当時の下士官として最高位の連隊付副官になったが、革命が起きなければこれ以上の昇進は望めなかったと考えられる。革命が起こると急速に昇進し、1793年にはライン方面軍で、パニックに陥った志願兵を押しとどめて立て直した。7月に大尉、わずか3週間後に中佐となり、1794年4月に大佐、7月に少将、10月22日に中将となった。サン=ジュストから将軍への昇進を持ちかけられたときは、その高位に見合う才能がないと辞退している。規律のない軍隊は勝利を活かせないと考え、部下の略奪を厳しく戒めて、補給や傷病兵の世話にも気を配った。1796年にはジュールダンの下で、3、4倍のオーストリア軍を相手に殿軍を務めた。1804年に皇帝となったナポレオンと和解して帝国元帥に任命された。アウステルリッツの戦いなどで戦功をたて、占領地の統治にも穏健で優れた手腕を示したが、ナポレオンとの関係は緊張が続いた。
1810年、スウェーデン議会によって王位継承者に選ばれ、カール・ヨハンと改名し、老いたカール13世に代わって摂政王太子として国政を担った。選出の主な理由は、1809年にロシアへ割譲されたフィンランドの奪還のために、フランスとの関係を強めることだった。しかし新王太子は奪還も維持も不可能だと考え、政策を転換した。1812年1月にフランス軍がスウェーデン領ポメラニアとリューゲン島を占領したことを契機に、ロシアやイギリスと同盟し、ナポレオンに対抗する方針をとった。その報酬として、デンマーク領のノルウェーを得る取り決めが成立した。1813年に第6次対仏大同盟に参加し、連合国軍の北方軍総司令官としてライプツィヒの戦いなどで勝利した。1814年1月のキール条約でノルウェーがスウェーデン王に割譲され、5月にノルウェーは独立を宣言してクリスチャン・フレゼリクを国王に選んだが、カール・ヨハンは軍でこれを屈服させ、8月の協定でノルウェーの自治と独自の憲法を認めた上で同君連合とした。
1818年、カール13世の死去で王位につき、ロシアとイギリスの間で緩衝帯の役割を果たし、大陸のいかなる紛争にも関与しない政策をとった。内政では財政の健全化と債務の削減を実現し、産業の振興、イェータ運河などの整備、教育施設や医療機関の整備を進めた。1830年代以降は議会改革に保守的な姿勢を見せ、改革派としばしば対立した。治世の間、両国は安定と平和を保ち、武装中立、高福祉、高教育などスウェーデンの近代化の萌芽となる政策を打ち出した。
同じ年に亡くなった人物
- マリー・アレル (1844年没)
- ヘンリー・アディントン (初代シドマス子爵) (1844年没)
- チャールズ・ブルフィンチ (1844年没)
- バルトロメオ・パッカ (1844年没)
- Sandor Kisfaludy (1844年没)
同じ地域に関係する人物
- ニルス・アンデション (1880年没)
- ケティル・カールソン・ヴァーサ (1465年没)
- ジークフリード・エドストレーム (1964年没)
- Sven Johansson (1953年没)
- オスカル・メディン (1927年没)