HISTORICAL PERSON · 1844年没

イヴァン・クルィロフ

19世紀ロシアの劇作家・文学者。貧しい境遇から独学で学び、『寓話』の作者として広く知られる。

生涯
1844年没
死亡地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出生地
ロシア連邦(モスクワ)
出典
世界地図
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)

伝記

イヴァン・アンドレーヴィチ・クルィロフは、19世紀ロシアの劇作家、文学者で、『寓話』の作者として著名である。1769年2月13日にモスクワで軍人の子として生まれ、1844年11月21日に没した。幼い頃はオレンブルクとトヴェリで過ごした。プガチョフの乱の際には、父の赴任でオレンブルクにいて、プガチョフによる包囲を経験した。プーシキンの小説『大尉の娘』は、その回想を参考にしたとも、作中のミロノフ大尉のモデルが彼の父だとも言われる。父は1775年に退役して1779年に没し、一家は貧困に陥った。8歳で下級裁判所に雇われ、その後トヴェリの県会に勤めて苦労を重ねた。1783年に母とペテルブルクに移り、税務監督局の下級吏員として働いた。母の指導を受け、亡父の蔵書を用いて、文学、数学、フランス語、イタリア語を独習した。フランス語は、貴族の子弟が家庭教師に学ぶ傍らで聞き覚えた。1786年に鉱山局へ転じ、同年に母が死去した。

14歳で喜劇『コーヒー占い女』を書き、1783年にこれを出版業者に売って60ルーブリを受け取り、その金でモリエール、ラシーヌ、ボワローの作品を手に入れたという。上演には至らなかったが、1786年から1788年に『異常な家族』などの喜劇を書き、ジャーナリズムに知己を得て文学に専念しようと決意した。モンテスキュー、ヴォルテール、ルソー、ディドロらの影響を受け、1789年に『精霊通信』、1792年に『見物人』、1793年に『ペテルブルク・メルクリー』などの雑誌を発刊し、印刷所も経営した。貴族社会の堕落と官僚機構の腐敗を暴いたため、革命的な主張で問題視されていたラジーシチェフと同一視され、雑誌は発禁、印刷所は閉鎖を命じられた。1794年にペテルブルクを離れて地方に隠れ住み、1797年から約4年は、ガリツィン公の領地で暮らした。公が軍事総督となるとリヴォニアに同行し、秘書と子弟の教師を務めて、1803年に辞した。その後の数年は、町から町へ放浪して賭け事をしていたという通説がある以外ほとんどわからない。

1802年に『精霊通信』を再開し、1806年にペテルブルクに戻って、貴族社会のフランス心酔を揶揄する喜劇『服飾品店』『娘教育』で成功した。同年、モスクワで詩人で寓話作家のドミートリエフに、ラ・フォンテーヌの寓話2編の訳を見せ、励まされて、さらに書くよう勧められた。1809年に最初の寓話集23編が出て熱狂的に迎えられ、以後は劇を捨てて寓話に専念した。官界の大立者オレーニンの推薦で、1812年から1841年3月まで帝国公衆図書館に勤め、時間にも恵まれた。1811年にロシア・アカデミー会員となり、1823年に金メダル、1838年には皇帝の許可のもと祝賀の大宴が開かれ、皇帝ニコライから年金を授かった。デカブリストの乱の起こった1825年以後2年間沈黙したほかは、1834年まで断続的に寓話を書いた。

全203編の寓話は、イソップやラ・フォンテーヌ、インドの寓話から題材を借りたものを除いて、大半が創作である。ロシアの風土に密着し、登場する動物もロシア人の風貌を備えているといわれる。真実を屈折させて感情を隠す「イソップの言葉」で反体制の思想を表現する方法を編み出したと考えられる。その文体はプーシキンに、ユーモアはゴーゴリに、風刺はシチェドリンに影響を与えた。1830年以降はほとんど書かず、怠惰や大食、機知に富んだ受け答えにまつわる逸話が数多く語られた。生涯独身で、晩年は脳出血を二度起こして、1844年に没し、友人ニコライ・グネーディチの隣に葬られた。

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