伝記
ジョン・ドルトンは、1766年9月6日、イギリスのカンバーランド州イーグルスフィールドで、クェーカー教徒の機織りの子として生まれた化学者、物理学者、気象学者である。地元の小学校で初等教育を受けたが、そこの教師が1778年に引退すると、12歳にして教師となった。15歳のときには兄とともに近くのケンダルでクェーカー教徒の学校を運営した。若いころは同郷のクェーカー教徒エリヒュー・ロビンソンに強い影響を受けた。有能な気象学者で機器製作者だったロビンソンが、数学と気象学への興味を植えつけたという。1787年から気象の日記をつけ始め、その後の57年間に20万以上の観測記録を記した。1790年ごろ法律家か医師を志したが、当時のイングランドでは非国教徒は大学に入れず、親族にも反対されて断念し、1793年までケンダルにとどまった。
その後マンチェスターに移り、盲目の哲学者で博物学者のジョン・ゴフに師事して科学の知識を身につけ、新設のマンチェスター・アカデミーで数学と自然哲学の教師となった。1800年に財政の悪化で職を辞し、以後は家庭教師として働いた。1794年にはマンチェスター文学哲学協会の会員に選ばれ、数週間後に自らの色覚を題材にした論文を発表して、先天色覚異常は眼球の液体の変色によって起きるという仮説を唱えた。この仮説の誤りは存命中に明らかになったが、研究の先駆性が評価され、色覚異常はドルトニズムと呼ばれるようになった。死後に保存された眼球の組織を1995年に調べた結果、中波長の錐体細胞が働かないタイプであることが判明している。
1800年に協会の職員となり、翌年からは気体の混合、水蒸気などの圧力、蒸発、気体の熱膨張を論じた一連の論文を発表した。様々な液体の蒸気圧を観察し、同じ温度変化による蒸気圧の変化は液体の種類に依存しないと断定した。その過程でゲイ=リュサックが1802年に発表した法則にも到達していた。1803年の水などによる気体の吸収についての論文では、のちにドルトンの法則と呼ばれる分圧の法則を示した。最も重要とされる業績は化学的原子説で、倍数比例の法則の成り立ちを考える中で、一定の質量比の原子の相互作用によって化学反応が起きるという考えに至ったとされる。この論文の発表は1803年10月21日で、出版は1805年だった。水素を1とする相対原子質量の表を作り、気体はすべて原子から成ると確信して、組み合わせは常に可能な限り単純になると仮定した。1808年の著作『化学哲学の新体系』で原子説を記し、元素記号も考案したが、広まらなかった。
「単純さ最大の法則」に基づいて水やアンモニアの分子式を推定したが、それらは間違っていた。それでもこの原子説は、ラヴォアジエの質量保存の法則以来の化学史上の重大な進歩だった。1817年から亡くなるまでマンチェスター文学哲学協会の会長を務め、弟子にジェームズ・プレスコット・ジュールがいる。実験では精度の高い器具が手に入っても不正確な器具で満足し、デービーは「実験者としては極めて粗雑」と評したが、後世の歴史家が再現すると結果は極めて正確だったという。1822年に王立協会フェローに選出され、1826年にロイヤル・メダルを受賞した。1833年に首相グレイから年金を授与され、1836年に増額された。生涯結婚せず、年に一度の湖水地方への旅行などを除いてマンチェスターで研究に明け暮れ、1844年7月27日に世を去った。
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