HISTORICAL PERSON · 1844年没

ジョゼフ・ボナパルト

ナポレオンの兄。ナポリ王、続いてスペイン王ホセ1世として君臨した。

生涯
1844年没
死亡地
イタリア共和国(フィレンツェ県 / フィレンツェ)
出生地
フランス共和国(コルテ)
出典
世界地図
イタリア共和国(フィレンツェ県)

伝記

ジョゼフ・ボナパルトは、ナポレオン・ボナパルトの兄である。1768年1月7日に生まれ、1844年7月28日に没した。ナポリ国王としてはジュゼッペ1世(在位1806年-1808年)、スペイン国王としてはホセ1世(在位1808年-1813年)にあたる。

コルシカ島のコルテで、カルロ・マリア・ブオナパルテとマリア・レティツィア・ラモリーノの次男、事実上の長男として生まれた。出生時の名はジュゼッペ・ナブリオン・ブオナパルテである。生まれた年にコルシカはフランスに侵攻され、翌年征服された。父は初めコルシカの愛国者パオリの支持者だったが、のちにフランスの支配を支持するようになった。法学を修め、ローマ駐在のフランス全権公使などを歴任した。1800年9月30日には、全権公使として、モルトフォンテーヌで、フランスとアメリカ合衆国の友好通商条約に署名した。1795年に五百人会の議員となり、4年後にはその地位を使って、弟のナポレオンが総裁政府を倒すのを助けた。1794年8月1日にジュリー・クラリーと結婚し、3人の娘をもうけた。フランス革命が勃発すると、革命政府にヴィランドリー城を差し押さえられたが、ナポレオンが皇帝に即位した後、この城を与えられた。帝政の開始とともに、帝国顕官の大選挙人に就任した。

1806年、ナポリ軍の指揮権を与えられた。1805年に始まったフランスとオーストリアの戦争で、ナポリ王フェルディナンド4世は、ナポレオンと中立条約を結びながら、数日後にオーストリア支持を宣言し、英露の大軍の上陸も許していた。アウステルリッツの戦いで第三次対仏大同盟が破れると、ナポレオンの怒りを買い、12月27日に王位を失ったと宣言された。ジョゼフは名目上の総司令官で、実際の指揮はマッセナが執った。1806年2月8日にフランスの4万の侵攻軍がナポリ領に入り、ほとんど抵抗を受けなかった。2月14日にマッセナがナポリを占領し、翌日ジョゼフが入城した。3月30日、ナポレオンの勅令により、ナポリとシチリアの王となり、その王冠は男子の子孫に世襲されるとされた。入城は熱烈に歓迎され、有力者の支持を得ようと、ブルボン家の下で職にあった者の大半を留任させた。

その2年後、義弟ジョアシャン・ミュラにナポリ王位を譲り、スペイン王ホセ1世となった。ブルボン朝の内紛に乗じて、フランスの影響力を強めようとするナポレオンの意図によるものだった。スペインの民はこれに反発し、ホセ1世を瓶にちなむ愛称で、酔いどれホセと呼んだ。流暢なスペイン語を話したとよく言われるが、実際には即位の際に、不承不承学んだに過ぎない。国内では堅実に改革に努め、異端審問の廃止や封建制廃止など、旧体制の打破を目指した。改革はスペインの貴族やブルジョワジーに支持され、近代化に貢献するかに思われたが、性急さが聖職者や地権者の激しい反発を呼んだ。武断政治を執るナポレオンは、文治政治の試みを阻害した。ホセ1世はゲリラとの和解を目指したが、ナポレオンはゲリラ征伐の態度を貫き、駐留フランス軍による軍事制圧と弾圧を進めた。スペイン独立戦争が激化し、軍政が布かれると、ホセ1世は傀儡と化し、1813年に廃位された。

ナポレオン戦争の終結後は、サーヴィリエ伯と称して、アメリカ合衆国に亡命し、ニュージャージー州ボーデンタウン近郊の邸宅に住んだ。1832年に甥のナポレオン2世が死去した際には、ボナパルティストによって、フランス皇帝に擬せられた。1844年、フィレンツェで76歳で没し、遺体はパリのオテル・デ・ザンヴァリッドに葬られた。

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