伝記
ムト・アシュクルは、紀元前18世紀のアッシリアの統治者で、イシュメ・ダガン1世の子とされる人物である。名はフルリ語の名とされる。標準的なアッシリア王名表には載っておらず、はるか後世に作られた王名表の別の写しに、イシュメ・ダガン1世の子の可能性がある人物として名が見えるにすぎない。そのため、実在が疑われ、神話的な人物かもしれないという見方すらある。一方で、マリから出た粘土板がその統治を裏づけるとする説明もあり、マリ王ジムリ・リムにあてた書簡がいくつか伝わるともいわれる。
標準的な王名表は、イシュメ・ダガンの後継者としてアシュル・ドゥグルを挙げる。ところが別の写し(VAT 9812)は、ムト・アシュクルとその次のレ・ム・…という名の王を挙げ、この二人はほかの王名表には現れない。ベノ・ランツベルガーは、名の残らない三人目の王をさらに想定している。ムト・アシュクルが王位を継いだ時期は、ハンムラビ王の治世の第31〜33年、中年代論でおよそ紀元前1760年にあたるとされる。この人物とその後継者は合わせて29年間統治したとされ、リードの改訂年代では紀元前1668年から1640年に置かれる。メソポタミア年代記には、ムト・アシュクルの次にリムシュ、さらにその次にアシヌムが王となったと記すものもある。別の計算では、紀元前1760年頃から1740年頃までがムト・アシュクル、その後継者のリムシュ(レ・ム・…)が1740年頃から1730年頃までを治めたことになる。父イシュメ・ダガンの死はマリの粘土板から紀元前1762年とされるが、王名表では約40年在位したことになるため、従来の年代論ではムト・アシュクルの即位はおよそ1740年へ下がる。
アッシュルそのものを支配したかどうかは確かでない。ガシェらは、ムト・アシュクルとその後継者たちはエカラトゥムだけを治め、おそらくアッシュルのアシュル・ドゥグルとその後継者たちと並立していたと考えている。父のイシュメ・ダガン1世は紀元前1781年から1741年頃に在位したともされ、その死とシャムシ・アダド1世が築いた国家の完全な崩壊のあとのあと、アッシリアには王位をめぐる無秩序の時代が訪れ、幾人もの王位請求者が争ったとされる。シャムシ・アダドの孫とされるアッシュルの統治者アシヌムとの関係もはっきりしない。
事績については、別の再構成が伝わる。イシュメ・ダガンは、ムト・アシュクルをフルリ系の君主ザジヤの娘と結婚させた。この王は病に伏していたらしく、後継の準備のためバビロンへ赴いて子への支援を求め、その間、子に統治を任せたという。ムト・アシュクルは南ラザマからバビロニア兵2000と自軍2000でカラナに挑み、エシュヌンナに援助を求めたが得られなかった。やがてアラハドのアタムルムが、エカラトゥム内の一派の助けを得て町を奪い、ハンムタルという人物を従属する王に据えた。ところがアタムルムはエラムの従属者であったため、イシュメ・ダガンはバビロンのハンムラビに宝を求めた。ハンムラビは神殿から資金を得て、それを「贈り物」の名目でエラム王へ送った。エラム王はムト・アシュクルの復位を命じ、ムト・アシュクルは父の跡を継げたが、以後アッシリアはバビロンの支配下に入ったという。ムト・アシュクルは、アタムルムがエラムの傀儡として王位につけたとする説もあり、伝承ごとに経緯の伝え方は一致しない。
同じ年に亡くなった人物
- Meretseger (紀元前1800)
- イシュメ・ダガン1世 (紀元前 1800年(推定))
- アメンエムハト5世 (紀元前 1800年(推定))
- ホル (紀元前 1800年(推定))
- ネブヌイ (紀元前1800)
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