伝記
アンドリュー・ジャクソンは、1767年3月15日、アイルランドから移民したスコットランド系の両親の間に生まれた。父は生まれる3週間前に事故死し、正確な出生地はノースカロライナとサウスカロライナの境の森林地帯ワクスハウ付近とされるが、論争の対象となってきた。アメリカ独立戦争が始まると13歳で急使として大陸会議軍に加わった。長兄ヒューは戦闘中に高熱で死亡し、ジャクソンと次兄ロバートはイギリス軍に捕らえられた。将校のブーツを片付けるのを拒んで刀で切りつけられ、左手と頭に傷跡が残ったという。兄弟は天然痘にかかり、ロバートは釈放の数日後に死んだ。母も捕虜の看護に出向いた先で病に倒れ、1781年11月に亡くなった。肉親を戦争で全て失ったジャクソンは、イギリス軍を非難した。
その後は鞍職人の店で働き、学校教員を経てソールズベリーで法律を学び、1787年に法曹界に認められた。のちにテネシー州となる地域に移り、開拓地の弁護士として頭角を現し、1788年に法務官に任命された。1796年にテネシー憲法制定会議の代表となり、州の成立後は下院議員、1797年には上院議員に選ばれたが1年以内に辞任し、1798年から1804年までテネシー州検事総長を務めた。1804年にナッシュビル近郊のハーミテージの農園を購入し、綿花を黒人奴隷に栽培させる農園主としても成功した。所有した奴隷は最大で150人とも、生涯で最大300人ともされる。
私生活では、ナッシュビルで知り合ったレイチェルと結婚したが、前夫との離婚が成立しておらず無効となったため、1794年に改めて結婚した。この経緯は後年まで中傷の種になった。1806年には妻を中傷した相手との決闘で胸に銃弾を受け、心臓近くのため摘出できず、後遺症に苦しみ続けた。この決闘でジャクソンは冷酷で残忍な男との評判を招き、しばらく社会の表舞台から去った。
軍人としては1801年にテネシー州市民軍の大佐となった。米英戦争のさなか、フォート・ミムズで約400人の白人入植者がクリーク族に殺されたのを機にクリーク戦争が始まると、ジャクソンは陸軍を指揮した。配下にはテネシーの民兵のほか、同盟したチェロキー族、チョクトー族なども加わっていた。1814年のホースシュー・ベンドの戦いでクリーク族の戦士集団を破り、約800人が殺されたが、降伏した酋長ウェザーフォードは助命した。のちジャクソン砦条約への調印を強いて、クリーク族は広大な領土を割譲させられ、ジャクソンはこの功績で少将に任命された。さらにニューオーリンズの防衛を指揮し、1815年1月8日の戦いで名声を得た。部下に「古いヒッコリーのように頑丈」と呼ばれ、「オールド・ヒッコリー」の愛称を得た。この名声を足場に民主党所属として初の大統領となったが、1828年12月22日、当選の翌月に妻が急死し、ジャクソンは選挙中の中傷が死を早めたと考え、ジョン・クインシー・アダムズを生涯許さなかった。在任中の強権ぶりから「アンドリュー1世」と揶揄され、史上唯一議会から不信任決議を受けた大統領となり、暗殺未遂の標的にもなった。1837年の退任後はハーミテージで隠居し、国と州の政治への影響力を保った。1838年には長老派教会の会員となった。大の競馬好きでも知られ、ホワイトハウスに厩舎を作らせたという。1845年6月8日に慢性結核や心不全などのため78歳で亡くなり、財産は養子のアンドリュー・ジャクソン・ジュニアが相続した。
同じ年に亡くなった人物
- チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵) (1845年没)
- ニコラ・テオドール・ド・ソシュール (1845年没)
- エリザベス・フライ (1845年没)
- ニコラ=トゥサン・シャルレ (1845年没)
- ロバート・グレアム (1845年没)
同じ地域に関係する人物
- エミリー・ドネルソン (1836年没)
- Duane Swanson (2000年没)
- ロレンゼン・ライト (2010年没)
- ジョン・サクソン (2020年没)
- ジャック・ダニエル (1911年没)