HISTORICAL PERSON · 1846年没

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル

ドイツの数学者・天文学者。恒星の年周視差を発見し、ベッセル関数を分類したことで知られる。

生涯
1846年没
死亡地
ナチス・ドイツ(カリーニングラード州 / ケーニヒスベルク)
出生地
ドイツ連邦共和国(ミンデン)
出典
世界地図
ナチス・ドイツ(カリーニングラード州)

伝記

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルは、1784年7月22日、ヴェストファーレン地方のミンデンに生まれたドイツの数学者・天文学者である。父は司法関係の公務員で、兄弟姉妹は8人いたとされる。14歳でギムナジウムを離れ、ブレーメンの貿易会社クーレンカンプ社に徒弟として入った。まもなく経理係となり、貨物船に頼る会社の仕事のなかで、数学の力を航海上の問題の解決に使うようになった。そこから、海上で経度を決める手段である天文学に関心を深め、余暇には独学で天文学と数学に励んだ。

1804年春、1607年の未発表の観測をもとにハレー彗星の軌道を論じた論文を書き、ブレーメンの天文学者で医師のハインリヒ・ヴィルヘルム・オルバースに渡した。オルバースはその数学的才能をすぐに見抜き、論文を雑誌に掲載させた。ベッセルは商社を辞め、オルバースの友人シュレーターが営むリリエンタール天文台で助手を務めた。ここでは彗星の研究を続け、1807年の大彗星に関する論文でラランド賞を受けている。また、ジェームズ・ブラッドリーが観測した3,222個の恒星のデータを整理し、1755年の真の位置に直し、歳差・章動・光行差の精密な定数を求めた。この成果は1818年に『天文学の基礎』としてまとめられ、恒星位置の計算の統一に役立った。この研究は広く注目され、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、25歳のベッセルをケーニヒスベルク天文台長に任命した。ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの改革で整えられた大学の天文台で、ベッセルは建設を監督し、1813年から死去するまで台長を務めた。1812年にはケーニヒスベルクで化学・薬学教授の娘ヨハナ・ハーゲンと結婚し、5人の子をもうけたが、長男ヴィルヘルムは1840年に26歳で病死している。長女マリーは物理学者エルマンに嫁し、子孫には学者が多く、エジプト学者アドルフ・エルマンが最も知られる。

ケーニヒスベルクでは、ブラッドリーの観測にもとづく大気差表を発表し、5万個以上の恒星の位置を測定した。1821年から1833年にかけては、子午環を用いた帯状の系統的観測も進めた。フラウンホーファー製のヘリオメーターでは、木星と土星の衛星の運動から両惑星の質量を求めている。観測者ごとに時刻判定にずれが出ることを突き止め、これを「個人方程式」と名付けたのも彼である。そして1830年代、恒星の正確な視差を最初に測ろうとする天文学者たちの競争のなか、1838年にはくちょう座61番星の視差を0.314秒角と発表した。この値から、星までの距離は約3パーセクと求められた。同じ年に、フリードリッヒ・フォン・シュトルーベがベガ、ヘンダーソンがケンタウルス座α星の視差の測定に成功したが、ベッセルがわずかな差で先んじた。さらにシリウスとプロキオンの運動のずれから、見えない伴星の重力によるものではないかと推定し、1841年にシリウスの伴星について発表した。観測されていない伴星の存在を位置測定から正しく指摘した最初の例とされ、のちのシリウスBの発見につながった。

大学教育を受けなかったにもかかわらず、当時の天文学界で大きな位置を占め、王立協会の会員となり、王立天文学会の金メダルを1829年と1841年に受け、1842年にプール・ル・メリット勲章を受けた。1846年3月17日、ケーニヒスベルクで癌のため没したとされる。遺骸は天文台に近い学者の墓地に葬られた。数学のベッセル関数、測地学のベッセル楕円体、月のクレーターなどに名が残る。

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