HISTORICAL PERSON · 1846年没

ルイ・ボナパルト

ナポレオンの弟。兄によりホラント王に据えられ、ナポレオン3世の父にあたる。

生涯
1846年没
死亡地
イタリア共和国(リヴォルノ県 / リヴォルノ)
出生地
フランス共和国(アジャクシオ)
出典
世界地図
イタリア共和国(リヴォルノ県)

伝記

ルイ・ボナパルトは、1778年9月2日、コルシカ島のアジャクシオで、シャルル・ボナパルトの五男として生まれた。母はレティツィア・ラモリーノで、ナポレオン・ボナパルトの弟にあたる。兄は彼を軍人にするつもりで育て、シャロン・シュル・マルヌの砲兵学校で学ばせた。18歳でイタリア遠征中の総司令官ボナパルトの副官となり、驃騎兵連隊の大尉に任じられた。のちにエジプト遠征にも兄に従ったが、総裁政府に報告書を届けるためエジプトを離れた。ブリュメールの政変の後は大使としてロシアに派遣され、約1年とどまったが、皇帝パーヴェル1世の暗殺で使命は難しくなった。のち竜騎兵連隊の大佐となり、旅団長に昇進した。戦場では勇敢に戦い、兄を満足させたものの、義務感から戦っていたにすぎず、暴力や略奪、破壊には深い嫌悪を覚えていたと伝えられる。のちにリウマチを患い、しばしば湯治場に通うことになった。

帝政の成立に際し、ルイは帝国顕官国民軍総司令官(コネターブル)の称号を受け、一時はピエモンテの総督も務め、レジオン・ドヌールの大鷲章も受けた。1805年には北方軍を率いてバタヴィア共和国の領土を占領したが、和平の報を受けて誠実に撤退し、オランダ人の好意を得たという。兄の妻ジョゼフィーヌの連れ子オルタンス・ド・ボアルネと結婚し、男子を3人もうけたが、陰気なルイと、陽気で社交的なオルタンスとは性格が合わず、夫婦仲は悪かった。長男は1807年に早世し、次男ナポレオン・ルイは1831年に没した。三男シャルル・ルイ・ナポレオンは、のちのフランス皇帝ナポレオン3世である。

オランダには、1795年にフランスの衛星国家であるバタヴィア共和国が成立していた。ナポレオンは同国をイギリス侵攻の基地と位置づけ、自分の意思に即応させるため、君主国への改組を企て、王位をルイに託そうとした。ルイは、リウマチを抱える身で寒い国に住むことや、皇帝の命令に無条件で従うことを好まず、計画に難色を示した。しかし兄の固執の前に、「なすべきことをなせ、なるようになれ」を座右の銘として受け入れた。バタヴィア政府の代表団は屈辱的にもルイその人に王位を請う形をとらされ、条約は憲法上の法と1805年の自由を維持し、言語・通貨・宗教を保つと定めた。1806年6月、ルイはハーグに入り、ホラント王国の国王となった。オランダ名はローデウェイク1世である。

ルイは兄の傀儡ではなかった。オランダ人の利益にも配慮して王の責務を誠実に果たし、ナポレオン法典の導入やカトリック教会の復権を実現した一方、徴兵制の導入は拒んだ。大陸封鎖令にも反対したが、密貿易が横行し、1809年にイギリス軍がゼーランド州に上陸したこともあって、ナポレオンは1810年に2万人の軍をオランダへ送り、ルイを退位させた。次男がローデウェイク2世と名乗って即位したが、10日後にホラント王国はフランス帝国に併合され、ルブランが総督としてアムステルダムに駐在した。同年、ルイはオルタンスと離婚し、三男は母に引き取られて育った。のちサン・ルー伯爵を名乗って亡命生活を送り、1844年の兄ジョゼフの死後は、ボナパルト家の当主となった。1846年7月25日、トスカーナのリヴォルノで没し、サン・ルー・ラ・フォレに葬られ、その名はパリの凱旋門にも刻まれている。没後6年の1852年には、息子のルイ・ナポレオンが第二帝政を開いた。

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