伝記
レンセネブ・アメンエムハトは、第二中間期のエジプト第13王朝に属する王で、ラニソンブとも呼ばれる。王朝内での順位は研究者によって分かれ、キム・ライホルトは14番目、デトレフ・フランケは13番目、ユルゲン・フォン・ベッケラートは16番目の王とみる。史料が乏しく、即位名は分かっていない。
この王を知るおもな手がかりは、トリノ王名表の第7欄16行目(ガーディナーの区分では第6欄6行目)の記載で、在位は4か月とされる。同時代の遺物は、釉薬をかけた凍石の玉1点しかない。この玉は1929年にパーシー・ニューベリーがカイロの古物商の店で見たのを最後に、行方が分かっていない。玉には「命を与えるラニソンブ・アメンエムハト」と刻まれていた。
この二重の名について、ライホルトは「アメンエムハトの子ラニソンブ」を意味する父子関係を示す名と解釈し、王がアメンエムハトという名の王の子だったとみる。レンセネブに最も近い先代でアメンエムハトの名を持つことが知られるのは、約10年前に在位したセアンクイブラ・アメニ・アンテフ・アメンエムハト6世である。間に入る3人の王セヘテピブラ、セワジュカラ、ネジェムイブラの本名は不明で、アメンエムハトだった可能性もあるため、そのうちの一人が父、あるいは年長の兄弟が順に王位に就いたのかもしれない、という。ライホルトは、父をアメニ・アンテフ・アメンエムハト6世とする案も出しており、その場合は他の王、たとえばセケムカラ・アメンエムハト、アメニ・ケマウ、ホテピブラ・ケマウ・シハルネジュヘリテフ、イウフェニらとも親族になる。
ただし、この解釈にはスティーヴン・クワークをはじめ従わない研究者もいる。ジュリアン・シエスは二重の名の父子説を退け、当時は王家でも民間でも二重の名が一般的で、同じ家族で同じ主名を持つ人を区別するための添え名だったと論じる。シエスはアメンエムハトが主名、レンセネブが添え名で、アメンエムハト・レンセネブが王の完全な名だと考える。この立場からは、他の人物とこの王を結びつける確かな根拠はないとされる。シエスはまた、ゲベル・ゼイトの石碑で知られるネブマアトラ王を、この王と同一人物だとみる。石碑の様式がセメンカラ・ネブヌンやセヘテピブラ・セウセクタウイの石碑に近く、近い時期の王のうち即位名が不明なのはこの王だけだからで、ネブマアトラが即位名、アメンエムハト・レンセネブの名がサ・ラーの名にあたるという。
後継者のホルは、親の名を一切記さなかったため、王家の出身ではなかったかもしれない。ライホルトは、ホルが王位を簒奪したと提案した。いずれにせよ、第13王朝初期の王たちの短い治世は、この時代の政治的な不安定さを物語っている。
同じ年に亡くなった人物
- ピユシュティ (紀元前1800)
- イウフニ (紀元前 1800年(推定))
- セベクヘテプ3世 (紀元前 1800年(推定))
- セヘテプイブラー (紀元前1800)
- Meretseger (紀元前1800)
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