HISTORICAL PERSON · 1848年没

ガエターノ・ドニゼッティ

イタリアのオペラ作曲家で、ロッシーニやベッリーニと並ぶ19世紀前半の代表格。1830年の『アンナ・ボレーナ』で名声を確立し、『ランメルモールのルチア』『愛の妙薬』など約70作を書いた。

生涯
1848年没
死亡地
イタリア共和国(ベルガモ県 / ベルガモ)
出生地
イタリア共和国(ベルガモ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ベルガモ県)

伝記

ガエターノ・ドニゼッティは、1797年11月29日にイタリア北部ベルガモの城壁外にあるボルゴ・カナーレ地区で生まれたオペラ作曲家である。三人兄弟の末っ子で、家は非常に貧しく音楽の伝統もなかった。父アンドレアは市の質屋の管理人だった。1802年にベルガモの主要な教会の楽長となったドイツ出身の作曲家ヨハン・ジモン・マイールは、合唱少年の声変わりまでの教育を超えた音楽教育を行う慈善音楽学校を開いており、父は二人の息子を入れようとした。兄ジュゼッペは年長すぎて断られたが、9歳のガエターノは受け入れられた。喉に難があるのではと懸念されたものの、マイールは「ほかの誰よりも音楽の上達が早い」と報告し、学校に留めるよう当局を説得した。声変わりで退学を迫られた際にも、マイールは自作の寸劇に弟子のドニゼッティを「小さな作曲家」の役で出演させ、学業の継続を訴えたという。ドニゼッティは1815年までの9年間をこの学校で過ごした。

その後マイールの尽力でボローニャ音楽院に学び、19歳のころに一幕物の喜劇『ピグマリオン』を書いた。法律家になることを望む父の束縛を逃れるため軍隊に志願し、兵籍のまま作曲を続けたともされる。1822年にナポリのサン・カルロ劇場の支配人ドメニコ・バルバイアから申し出を受けてナポリに移り、1844年1月の『カテリーナ・コルナーロ』の制作まで同地を拠点とした。ナポリでは51作が上演された。最初の目立った成功は、1822年にローマで上演されたオペラ・セリア『グラナダのゾライーダ』だった。1830年以前は喜劇的な作品が成功の中心で、その年の『アンナ・ボレーナ』によって名声を確立し、以後は歴史劇でも成功を収めた。『愛の妙薬』は1832年、サルヴァドーレ・カンマラーノが初めて台本を書いた『ランメルモールのルチア』は1835年、『ロベルト・デヴリュー』は1837年の作品である。1837年には、ヴィンチェンツォ・ベッリーニを悼んでレクイエムを作曲した。

イタリア、とくにナポリでの検閲に不満を募らせた彼は、1836年ごろからより自由な題材選びと高い報酬、名声を求めてパリでの活動に関心を持つようになった。1838年にパリ・オペラ座から新作二作の依頼を受けてからは、以後10年のかなりの期間をパリで過ごした。ナポリで検閲官に上演を拒まれた『ポリウト』は、フランス語版『殉教者』に改められてパリで上演された。1842年にはロッシーニの『スターバト・マーテル』のイタリア初演をボローニャで指揮して大成功を収め、1843年には喜劇『ドン・パスクワーレ』を発表した。ナポリ、ローマ、パリ、ウィーンを行き来して、上演に関わり続けた。

1843年ごろから重い病に活動を妨げられるようになり、梅毒や双極性障害が原因と思われる頭痛や神経性の麻痺に見舞われた。1846年の初めには精神病の施設に入れられ、1847年の終わりに友人たちの手で故郷ベルガモに戻された。1848年4月8日、神経梅毒による錯乱のなかでベルガモにて没した。

オペラは70作ほどにのぼり、悲劇にも喜劇にも代表作を持つ作曲家である。『ランメルモールのルチア』『ルクレツィア・ボルジア』といったセリア、『愛の妙薬』『連隊の娘』『ドン・パスクワーレ』といったブッファが今も人気を保つ。ほかに弦楽四重奏曲19曲、協奏曲、シンフォニア、合唱曲も多く残しており、これは恩師マイールの指導によるところが大きいとされる。兄ジュゼッペは軍人としてオスマン帝国に駐在し、のちに軍楽隊の洋楽教師となって、事実上の国歌となった行進曲を作曲した。

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