HISTORICAL PERSON · 1848年没

エミリー・ブロンテ

イギリスの小説家で、ブロンテ三姉妹の一人。エリス・ベルの筆名で唯一の長編『嵐が丘』を出版し、当初は酷評されたが没後に評価が高まった。

生涯
1848年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ブラッドフォード / ハワース)
出生地
イギリス連邦(The Bronte Birthplace)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ブラッドフォード)

伝記

エミリー・ジェーン・ブロンテは、1818年7月30日にイングランド北部ヨークシャーのソーントンで、牧師パトリック・ブロンテと妻マリアの第五子、四女として生まれた。1820年に妹アンが生まれ、同じ年に一家は丘陵の村ハワースに移ったが、翌1821年に母マリアが病没した。幼いエミリーときょうだいは、母の姉妹エリザベス・ブランウェルに育てられた。1824年、聖職者の娘のための学校カウアン・ブリッジ校に姉たちとともに入ったが、そこは不衛生で食事も乏しく、翌1825年に長女マリアと次女エリザベスが肺結核で相次いで亡くなった。エミリーは姉のシャーロットとともに急いで連れ戻され、以後は自宅で父の教えを受けて育った。牧師館では家事を任され、一つ年下のアンと協力して過ごした。父は子どもたちに文学や時事への関心を持たせ、自分の大きな蔵書を使わせたので、エミリーらはイソップ寓話や『千夜一夜物語』、ウォルター・スコットの作品などを読んだ。1833年か34年ごろに父がピアノを買うとエミリーは上達し、絵も習って、愛犬キーパーを描いた水彩画など29点が残っている。シャーロットは彼女を、孤独で意志が強く、自然と動物を深く愛する人だと評した。

1826年に父が土産に兵隊などのおもちゃを兄ブランウェルに贈ると、子どもたちはそれをきっかけに空想の物語を作って遊ぶようになった。のちにシャーロットがロウ・ヘッド校に通うようになり、きょうだいの空想世界はシャーロットとブランウェルの「アングリア」と、エミリーとアンの「ゴンダル」に分かれた。エミリーは姉の影響を離れたゴンダルで創作を主導し、大西洋上の架空の島を舞台に恋愛や政争を描いた。散文の物語は現存せず、この世界を舞台にした詩が残っている。17歳でロウ・ヘッド校の生徒となったが、3か月でハワースに戻っている。1838年にはハリファクス近郊のローヒルで教師を務めたが、長時間労働に苦しみ半年でやめた。1842年にはシャーロットとブリュッセルの寄宿学校に留学し、半年後に一人で帰国した。1844年に姉と私塾を開こうとしたものの、田舎で生徒が集まらず失敗した。

同じ年の秋、シャーロットはエミリーの詩稿を見つけ、女性が書く普通の詩とは違うと確信して、三姉妹での詩集出版を持ちかけた。エミリーは秘密主義で、詩を盗み見られたことに激怒したが、姉の根気強い説得でしぶしぶ同意した。男性風の筆名を用い、『カラー、エリス、アクトン・ベルの詩集』として1846年に自費出版したが、まったく売れなかった。続いて長編小説『嵐が丘』を書き、エリス・ベルの名で、アンの作品とともに1847年に刊行した。評価は厳しく、同じ年に出た姉の『ジェーン・エア』のほうがよく注目された。『嵐が丘』の評価が高まったのは没後のことである。

1848年9月、兄ブランウェルが31歳で急死した。その葬儀で風邪をひいたことがもとで結核を患ったが、エミリーは病を認めようとせず、最期まで服薬も医者も拒み続けた。12月19日、30歳で亡くなり、遺体はハワースの聖マイケル教会の地下納骨堂に葬られた。詩では、ゴンダルの物語に属するものが多いほか、「私の魂は怯懦ではない」などが知られ、現在は後期ロマン派の詩人としても評価が高い。

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