伝記
イェンス・ヤコブ・ベルセリウスは、1779年8月20日、スウェーデンのリンシェーピング近くの教会区に生まれた化学者であり医師である。父はイェータランドの高等学校長を務める牧師だったが、4歳のときに死別した。母が再婚した養父も牧師で、継子たちにも分け隔てなく接し、幼い息子にスウェーデンの博物学者リンネの足跡をたどれるようになれと諭したといわれる。その後母も亡くなって母方の叔父に引き取られ、親類のもとを転々とする貧しい少年期を送ったとされる。1793年にリンシェーピングのギムナジウムへ入学すると、昆虫や植物の採集に熱中し、自然の観察に関心を深めていった。
1797年にウプサラ大学医学部へ進んだが、学費に窮して一時学業を中断し、翌年には奨学金を得て復学した。この頃、ギルタナーの『反燃素化学の基礎』というラヴォアジエの体系を採った化学書を読み、実験化学に強く惹かれた。元素を見つけて取り出すことこそ化学の第一の仕事だと考えるようになったとされる。ところが、かつての師が実験室の使用を認めなかったため、窓のない小部屋を借りて暖炉の脇に自前の実験室をこしらえ、医学の勉強と並行して実験を重ねた。1800年にメデヴィの温泉水の分析で卒業論文を出し、1802年にはガルヴァーニ電気の研究で医学の学位を得て、1804年にストックホルムで開業した。
医業のかたわら化学研究を続けるうち、カロリンスカ医学外科学院で医学と薬学の無給助手に採用され、1807年に教授へ昇った。ただし道のりは平坦ではなく、ラヴォアジエ流の用語を使った亜酸化窒素の論文はスウェーデン王立科学アカデミーに退けられ、私的な化学講義は収入にならず、鉱泉水の工場や酢酸の工場の事業も失敗して、その後十年ほどを借金の返済に費やしたという。鉱山主で化学の愛好家でもあったヒジンゲルの支援を得て、塩類を電気で分解する研究を共同で発表し、1803年にはセリウムの発見にも至った。1808年にアカデミーの会員となり、1810年に会長、1818年に終身会員となり、1837年にはスウェーデン・アカデミーの終身会員にも選ばれた。
ベルセリウスは、原子が正負の電荷の引き合いで結びつくと考える電気化学的二元論を唱えた。1828年までに、当時知られていた43の元素の原子量を、2000を超える化合物を精製・分析して決定し、その精度はドルトンの値を大きく上回った。セレンとトリウムを発見し、ケイ素やジルコニウムなどを単体として分離した。さらに1813年頃には、ラテン語やギリシャ語の名称の頭文字で表す元素記号の方式を提唱し、これはすぐに広まって今も使われている。ハロゲン、異性体、触媒、有機物、タンパク質といった用語や概念も彼が生み出した。教科書『化学における教科書』全6巻は1808年から1830年にかけて書かれ、のちに弟子のヴェーラーがドイツ語に訳した。
研究に打ち込んで1835年まで独身を通したが、友人の妹と結婚する際、国王カール14世ヨハンから男爵に叙せられた。プロイセン皇太子やロシア皇太子、フランス国王ルイ・フィリップにも進講している。政治家のメッテルニヒや文豪ゲーテとも親交があり、その業績からスウェーデン化学の父と呼ばれる。晩年には自ら唱えた電気化学的二元論の破綻に直面しながら、1848年8月7日、ストックホルムで世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- ヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニ (1848年没)
- イェウヘーン・フレビーンカ (1848年没)
- マーティヌス・ラービュー (1848年没)
- フェリックス・フォン・リヒノフスキー (1848年没)
- ペッレグリーノ・ロッシ (1848年没)
同じ地域に関係する人物
- Lars Larsson (1993年没)
- ヨースタ・サンドベリ (2006年没)
- Sven Johansson (1953年没)
- アルフ・シェーベルイ (1980年没)
- モニカ・ゼタールンド (2005年没)