HISTORICAL PERSON · 1849年没

フランツェ・プレシェーレン

スロベニアを代表する詩人で、「スロベニアのプーシキン」とも称される。ロマン主義を体現し、ヨーロッパ文学の基準でも評価される。

生涯
1849年没
死亡地
スロベニア共和国(クラーニ)
出生地
スロベニア共和国(ヴルバ)
出典
世界地図
スロベニア共和国(クラーニ)

伝記

フランツェ・プレシェーレンは、1800年12月3日、ハプスブルク君主国に属するカルニオラ公国のヴルバ村(現在のスロベニア)に生まれた詩人である。「スロベニアのプーシキン」とも称され、今日ではスロベニア語文学を代表する作家のひとりと見なされている。裕福な農家の八人きょうだいの三番目で、最初の息子だった。教育熱心な母は子どもたちに読み書きを教え、聖職者であるおじたちのもとへ送り出した。彼自身は8歳でグロスプリェとリブニッツァの教会運営の初等学校に入り、1812年に中心都市リュブリャナへ移ってギムナジウムに通った。当時の教育や行政、高い文化の言語はドイツ語で、ラテン語やギリシャ語もここで学んだ。母は聖職者になることを望んだが、本人は従わなかった。リュブリャナでは詩人ヴァレンティン・ヴォドニクに励まされてスロベニア語で書くよう促され、のちに言語学者となるマティヤ・チョプと友人になった。

1821年からウィーン大学で哲学と法律を学び、ホメロスやゲーテ、ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョなど西洋の古典に親しみ、同時代のロマン派の詩も読んだ。禁じられた詩の小冊子を友人に貸したことで、教えていたイエズス会系の学院の職を解かれたこともあった。学生時代から詩作を始め、1824年には人気の高い詩を書いたが、1825年にまとめた詩集を言語学者コピタルに見せたところ厳しく批判され、全部を破棄してしまったという。1828年に法学の博士号を得てリュブリャナに戻り、法律事務所の助手になった。独立した弁護士を志して何度も申請したが認められず、1832年には職を求めてクラーゲンフルトへ移ったものの一年足らずで戻った。

1833年、裕福な商人の娘ユリヤ・プリミッツと出会ったとされ、生涯かなわぬ恋の相手となった。劇場や舞踏会で彼女を見かけても気持ちを示す勇気がなく、彼女は1835年に別の男性と結婚した。1836年頃に恋の成就しないことを悟り、同じ年に出会ったアナ・イェロウシェクと暮らして3人の子をもうけたが、結婚はしなかった。1834年には友人の助手として働いて文学に割ける時間ができ、チェコの詩人マーハやスロベニア出身のクロアチアの詩人ヴラズと詩を語り合った。ブレッド湖など各地を旅して、風景を詩の着想にもした。最もよく知られる作品『ソネットの花輪』は、この片思いと親友チョプの死に触発されたもので、14のソネットは、一つの最後の行が次の始まりになる形でつながって花輪を成し、14の最初の行を集めるとさらに別のソネットになり、その行頭の文字がユリヤへの献辞を綴る。晩年は市民社会や宗教界と対立し、重い飲酒癖に悩み、少なくとも二度自殺を試みたとも伝えられる。

1844年11月に詠んだ『祝杯』の第7連は、1991年にユーゴスラヴィアから独立したスロベニア共和国の国歌となった。多くの作品をドイツ語でも書き、詩を新聞に発表する際はスロベニア語版とドイツ語版を並べて載せた。1846年にようやく自分の法律事務所を開くことを許されて家族とクラーニへ移り、1849年2月8日にそこで亡くなった。臨終の床で、ユリヤを忘れたことはなかったと打ち明けたという。2月8日は「プレシェーレンの日」としてスロベニアの休日となり、ユーロ導入前の1,000トラール紙幣と、現在の2ユーロに肖像が描かれている。リュブリャナの広場には、彼と文学上のミューズであったユリヤの銅像が建っている。

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