HISTORICAL PERSON · 1850年没

ホセ・デ・サン=マルティン

アルゼンチン出身の軍人・政治家。チリとペルーに軍を進めて独立に導き、南アメリカ諸国の独立に貢献した。

生涯
1850年没
死亡地
フランス共和国(パ=ド=カレー県 / ブローニュ=シュル=メール)
出生地
アルゼンチン共和国(Yapeyu)
出典
世界地図
フランス共和国(パ=ド=カレー県)

伝記

ホセ・フランシスコ・デ・サン=マルティン・イ・マトーラスは、1778年2月25日、現在のアルゼンチン北東部コリエンテス州のヤペユーで生まれた。父はスペイン軍の軍人で同地の行政官を務めたフアン・デ・サン=マルティン、母はグレゴリア・マトーラスで、名士の家柄の出だったとされる。1785年に父がスペインへ戻ったため、7歳で家族とともに海を渡った。マドリードの貴族神学校に入ったが、12歳でムルシア連隊に入隊し、以後22年間スペイン軍で働いた。メリリャやオランでのアフリカ遠征に加わり、1797年にはピレネーでのフランス軍との戦いの功で少尉に昇進した。1804年に大尉となり、ナポレオン軍のイベリア半島侵攻後はフランス軍との戦いで名をあげた。のちに陸軍中佐まで昇進したが、母国で独立運動が起きたと聞くと、築いた地位をすべて捨てて帰ることを決めた。

1812年、フリゲート艦でブエノスアイレスに着くと歓迎を受け、大佐の階級を認められた。騎兵部隊の創設を任されて騎馬擲弾兵連隊と名づけ、ナポレオン軍との戦いで得た経験をもとに近代的な戦術を教え込んだ。同じ年に14歳のマリア・デ・ロス・レメディオス・デ・エスカラーダと結婚している。1813年2月3日にはサン・ロレンソの戦いでスペイン側の艦隊の上陸部隊を撃破した。当時の北部軍はマヌエル・ベルグラーノ将軍の下で険しい地形に阻まれ、アルト・ペルー(現在のボリビア)への解放戦争で数度の敗北を重ねていた。サン=マルティンは、スペインの南米支配の拠点であるペルー、とくにリマを解放しなければ独立は完成しないと考え、まずチリを経てペルーを攻める壮大な作戦を構想した。1816年にラ・プラタ連合州が独立を宣言すると、メンドーサで軍の鍛錬を進めた。

1817年初め、亡命チリ人の指導者ベルナルド・オイヒンスらとともにメンドーサから出撃し、アンデス山脈を越えてスペイン軍の不意を突いた。2月13日にサンティアゴへ入城し、チリの議会は彼を執政官に選んだが、これを断ってオイヒンスを元首に推した。その後、4月5日の戦いで再びスペイン軍を破ると、チリの独立が確定した。次いでペルー攻略に向かい、艦隊の編成に2年近くかかったが、元英国海軍のトマス・コクランの助けで1820年8月に出航し、1821年7月9日にリマに入ってペルーの独立を宣言、議会から護国官に任命された。しかし独立は海岸部にとどまり、奴隷解放などの政策は地元の既得権層の支持を得られなかった。

1822年7月26日、グアヤキルでシモン・ボリーバルと会談したが、内容を伝える資料は残らず、共和主義者のボリーバルと君主主義者とされるサン=マルティンの隔たりが確認されたことだけが事実とされる。サン=マルティンは引退を決め、護国官の辞任を申し出た。やがて妻が急死し、ブエノスアイレスと地方諸州の抗争を避けて娘とともに1824年にイギリスへ渡った。帰国を試みたが船上で罵声を浴び、ヨーロッパに戻った。最期はフランスのブーローニュ=シュル=メールで過ごし、1850年8月17日に失意のうちに没した。再評価が進んだのは1880年代以降で、今では南米南部の独立の英雄とされ、命日はアルゼンチンの祝日となり、遺体はブエノスアイレス大聖堂に安置されている。

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