伝記
ザカリー・テイラーは、1784年11月24日にバージニア州オレンジ郡の農場で生まれた。父は農園主のリチャード・テイラー、母はサラ・ストローザーで、九人兄弟の三人の息子のうちの末っ子であった。父はアメリカ独立戦争でジョージ・ワシントンとともに戦った人物で、1800年までに広い土地と26名の奴隷を所有していた。幼少期はケンタッキー州ルイビルの辺境で、丸太小屋に暮らした。辺境には学校がなく、父と時おり雇われた家庭教師から基礎的な教育を受けただけで、筆跡や綴りや文法は生涯粗雑だったとされる。成長すると、軍に加わる決心をした。
1808年5月3日に陸軍に入隊し、又従兄弟にあたるジェームズ・マディソンから第7歩兵連隊の中尉に任官された。インディアナ準州に配属され、1810年11月に大尉へ昇進し、前任の司令官が逃亡したフォート・ノックスでは後任として1814年まで指揮をとった。米英戦争ではフォート・ハリソンを指揮してテクムセ率いるショーニー族と戦い、その功績で戦時少佐に昇進し、ワイルドキャット・クリークの戦いでは第7連隊を率いた。
1846年、ジェームズ・ポーク大統領の命でリオグランデ砦に派遣され、メキシコ軍に攻撃されると、4対1と数で圧倒されながらも、これを破った。ポークがメキシコに宣戦布告すると、リオ・グランデ川を渡って緒戦に勝利し、その後も大統領令を無視してメキシコ領の奥深くまで進撃し、主力を降して凱旋した。陸軍での経歴は40年に及び、「オールド・ラフ・アンド・レディ」の異名で知られた。
米墨戦争の英雄としてホイッグ党に誘われ、1848年の大統領選に出馬した。政治的な野心はなく、選挙人名簿にも登録せず、自分に投票さえしなかったという。選挙ではルイス・カスを破って当選した。宗教的な信条から日曜日の宣誓を断り、就任宣誓式は1849年3月5日の月曜日に行われた。このため、上院仮議長だったデイヴィッド・ライス・アッチソンが一日だけ大統領だったとする説があり、アッチソンの墓石にもそう刻まれているが、疑わしいとする見方もある。
大統領としては、ゴールドラッシュで人口が増えたカリフォルニアを自由州として州に昇格させることを望んだ。奴隷州と自由州の均衡が崩れることを恐れた南部は反対したが、テイラーは南部が反乱を起こすなら武力で鎮圧することも辞さない姿勢で応じた。外交では、国務長官ジョン・ミドルトン・クレイトンがイギリス公使ブルワー卿と協議し、1850年にパナマ地峡の中立を掲げるクレイトン・ブルワー条約を結んだ。
軍人出身で初めて大統領になった人物であり、ミシシッピ川以西を代表した初の大統領ともされる。妻のマーガレットは夫とともに任地を転々とする生活を送ってきたため、静かな暮らしを望み、夫が無事に帰還したら社交界には出まいと願をかけていた。大統領夫人になっても公式の場への出席を拒み、一番若い娘のメアリーが代役を務めた。テイラーは南部の分離に断固反対していたが、末っ子で一人息子のリチャードは、のちの南北戦争で南軍の将軍として参加した。
1850年7月4日、ワシントン・モニュメントでの式典に出席したあと、猛暑のなかでキュウリと牛乳を摂りすぎて体調を崩したと伝えられる。発病から5日後の7月9日の午後10時35分ごろ、重度の消化不良で世を去った。就任からちょうど16か月目であり、遺体はルイビルに埋葬された。毒殺説が根強く唱えられたが、1991年の遺体調査でその可能性は否定された。
同じ年に亡くなった人物
- ジュゼッペ・ジュスティ (1850年没)
- ジェーン・ポーター (1850年没)
- アダルベルト・ギロヴェッツ (1850年没)
- ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック (1850年没)
- Carl Sigismund Kunth (1850年没)
同じ地域に関係する人物
- エドワード・ダグラス・ホワイト (1921年没)
- チャールズ・J・ギトー (1882年没)
- ユージーン・マッカーシー (2005年没)
- ジーン・ディクソン (1997年没)
- ウォルター・ジョンソン (1946年没)