伝記
ルイ・フィリップ1世は、1773年10月6日にパリのパレ・ロワイヤルで生まれた。ブルボン家の支流であるオルレアン家の当主ルイ・フィリップ2世(平等公)と、パンティエーヴル公の娘ルイーズ・マリーの長男である。洗礼式では国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが名親を務めた。家庭教師には文筆家で教育者のジャンリス夫人がつき、広い知識を学んだが、規律正しいがけちな性格に育ったと『ブリタニカ百科事典』第11版は評している。
1789年にフランス革命が起こると、父とともに熱意をもって革命に参加し、1790年にはジャコバン・クラブに入った。竜騎兵連隊の隊長を経て、1792年の革命戦争の勃発後は中将として北方軍に配属され、ヴァルミーの戦いとジュマップの戦いに加わった。父は国民公会でルイ16世の処刑に賛成票を投じたが、当時19歳で被選挙権のなかった本人は、デュムリエ配下としてオランダに進軍中だった。1793年3月のネールウィンデンの戦いで軍が敗れると、デュムリエは共和政転覆のためパリ進軍を謀り、本人もこれに同調した。しかし兵士たちの憤激を買い、4月5日にオーストリア軍へ逃げ込むほかなくなった。これ以後、20年ほどに及ぶ亡命生活が始まった。
1793年11月に父が処刑されるとオルレアン公位を継ぎ、オルレアン派の中心人物となった。スカンディナヴィア諸国を巡ったのち、1796年に総裁政府から、投獄していた母と弟2人の釈放と引き換えに渡米を打診されてこれに応じ、10月にフィラデルフィアに着いた。翌年に合流した弟たちと1799年までニューイングランドや五大湖、ミシシッピ川流域を旅し、ブリュメール18日のクーデターの報を受けて帰欧を決めた。1800年初にヨーロッパへ戻ると、アルトワ伯の仲介で亡命中のルイ18世と和解し、1807年まで弟たちとロンドン近郊のトゥイッケナムに住んだ。弟たちは相次いで病没した。1809年にはナポリ王フェルディナンド4世の娘マリーア・アマーリアと結婚し、2人は6男4女をもうけた。1814年のナポレオン退位後にフランスへ戻ると、ルイ18世に歓迎されて領地を取り戻した。子女を公立学校に通わせたことで中流階級の人気を得て、パレ・ロワイヤルは中流階級の政治家が集まる場となった。
1830年の7月革命でブルボン朝が倒れると、ティエールらの主張を受けて7月30日にパリに戻り、王国総代理官に任じられた。翌日にはトリコロールのスカーフをつけてパリ市庁舎へ行進し、ラ・ファイエットに迎えられた。8月7日には代議院によって「フランス人の王」と宣言された。国王となると馬車からフルール・ド・リスを消し、宮殿を一般公開して民主派をなだめる一方、諸外国には政権の穏健さを強調して承認を得た。しかし制限選挙のもとで地位が固まったとの思いから政策は次第に反動化し、スペイン女王の結婚問題への介入やスイスの分離同盟戦争での保守派支持によって支持を失った。1848年の2月革命で味方を失い、2月24日に七月王政は倒れた。変装して「スミス夫婦」を名乗り、ル・アーヴルから船でイギリスへ逃れ、ヴィクトリア女王から与えられた居館で暮らし、1850年8月26日にクレアモントで世を去った。治世中は「株屋の王」と揶揄され、顔つきから「梨王」とも呼ばれ、ドーミエの風刺画にも洋梨に似た顔で描かれた。
同じ年に亡くなった人物
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- Vincent Pallotti (1850年没)
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