HISTORICAL PERSON · 1851年没

カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビ

ドイツの数学者。ケーニヒスベルク大学教授として楕円関数を研究し、アーベルの研究を引き継いで発展させた。関数行列式(ヤコビアン)を考案し、行列式の理論の創始者の一人にも数えられる。

生涯
1851年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ポツダム)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ベルリン)

伝記

カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビは、1804年12月10日にポツダムでユダヤ人の家系に生まれたドイツの数学者である。楕円関数、力学、微分方程式、行列式、数論などに基礎的な貢献をした。銀行家シモン・ヤコビの4人の子の2番目で、兄のモーリッツも後に技術者・物理学者として知られた。生まれたときの名はジャック・シモンというフランス風のもので、のちにドイツ風に改められた。はじめは叔父のレーマンから古典語と初歩の数学を教わり、1816年、12歳でポツダムのギムナジウムに入った。叔父の教育と本人の優れた才能により、半年足らずで最上級に進んだが、大学は16歳未満を受け入れなかったため、1821年まで最上級にとどまり、その間に自習で学びを深めた。この時期には、五次方程式を代数的に解く試みにも取り組んでいる。

1821年にベルリン大学へ進むと、文献学と数学の両方に打ち込み、文献学ではアウグスト・ベックのゼミに加わって教授の目に留まった。当時の大学の数学は初歩的すぎると感じ、授業にはあまり出ず、オイラー、ラグランジュ、ラプラスらのより進んだ著作を私的に読み進めた。1823年に数学に専念すると決め、同じ年に中等学校教員の資格を得てヨアヒムスタール・ギムナジウムの職を提示されたが、大学での職をめざして断った。1825年に哲学博士の学位を得た。学位論文は有理分数の部分分数分解を扱ったもので、続けて教授資格を取り、この時期にキリスト教に改宗した。21歳の1825年から翌年にかけて、ベルリン大学で曲線と曲面の理論を講じた。1826年に私講師となり、翌1827年にケーニヒスベルク大学の員外教授、1829年には正教授に就いて1842年までその座にあった。

1829年に『楕円関数論の新たなる基礎』を著し、のちに『クレレ誌』にも論文を発表して、楕円関数とテータ関数の理論を築いた。この研究の途上では、ニールス・アーベルとの競争がよく知られており、アーベルが一歩先んじたかたちとなった。ヤコビは彼の論文を絶賛したが、アーベルは1829年4月に亡くなり、その後はヤコビが研究を引き継いで発展させた。楕円関数を数論に応用して、ラグランジュの四平方定理を精密にしたヤコビの四平方定理も得ている。また、n個の関数のn個の変数による微分係数からなる関数行列式を考案し、これは現在ヤコビアンと呼ばれる。ほかにもハミルトン-ヤコビ方程式、ヤコビ積分、ヤコビ恒等式、ヤコビ記号など、名を冠した成果は多い。学生には、研究題材を探すときは「いつも逆にせよ」と語ったと伝えられる。

1843年に過労で倒れ、療養のため数か月イタリアで過ごした。帰国後はベルリンに移り、国王から年金を受けて暮らした。1848年の革命では政治にかかわり、自由主義団体から議員に立候補したが当選せず、革命の鎮圧後に年金を止められたものの、その名声とアレクサンダー・フォン・フンボルトの働きかけにより、まもなく再開された。1851年2月18日、天然痘により没した。墓はベルリンのクロイツベルク地区の墓地に残り、月のクレーターのひとつに彼の名がつけられている。没後には大量の原稿が残され、一部は『クレレ・ジャーナル』に掲載され、1881年から1891年にかけて業績集がベルリン大学の手で刊行された。

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