伝記
アブドゥッラー・ブン・アル=ムバーラクは、8世紀のスンナ派のイスラーム学者で、ハディース学者、ハナフィー派の法学者である。「ハディースにおける信徒の長」の称号で知られ、敬虔で、記憶力に優れ、知識を求める熱意が強く、禁欲の人としても記憶されている。商人、詩人でもあった。
ホラーサーンのメルヴに、イスラーム暦118年(西暦736年)に生まれた。父ムバーラクはホラーサーンの出身で、インド系とも、トルコ系ともいわれ、ハマダーンでバヌー・ハンザラ部族のアラブ人商人のマウラー(被保護民)となった。母はホラズムの出身と伝えられ、ムバーラクはのちに商人の娘ヒンドと結婚した。幼少期と青年期はメルヴで過ごしたが、この時期のことはほとんど知られていない。最初の師はメルヴの学者だった。
23歳ごろから学問を求めて旅を始め、その後の年月も旅を続けて、バスラ、ヒジャーズ、イエメン、エジプト、シリア、イラクの各地を巡った。師にはアブー・ハニーファ、スフヤーン・アッサウリー、マーリク・ブン・アナス、スフヤーン・ブン・ウヤイナ、アウザーイーらがおり、アブー・ハニーファとは弟子であり友人でもあった。法学はスフヤーン・アッサウリーとマーリクに学び、マーリクの『ムワッタア』を暗記して他の人々に教えた。バスラのハディース権威ハンマード・ブン・ザイドの敬意も得ている。アフマド・ブン・ハンバルは、知識を求めて旅することにこれほど熱心な人はいなかったと評した。ホラーサーンで最初にハディースを講じた学者とされ、メルヴをはじめ多くの学者が育つこの地で名声を高めた。
ハディースの学者としては、約4千人から聞き、そのうち約千人の権威でのみ伝えたといわれ、書物には2万を超える伝承が収められていたという。資格がないと見なした伝承者からは受けず、準備のない人には教えなかった。クーファに滞在した際には、ハディースに異論が生じるたびに学者たちが彼を頼り、その学問の「医者」と呼んだ。軍事遠征の最中にも、見込みのある弟子には教え続けた。伝承の連鎖であるイスナードを重んじ、それなしに宗教を学ぼうとするのは、階段を使わずに家の屋根へ登ろうとするようなものだと述べ、それがなければ誰でも宗教について好きなことを言えてしまうと語った。伝承の偽装であるタドリースは厳しく非難した。寒い夜に、夜の礼拝から朝の礼拝の呼びかけまで、ひとつのハディースを論じ続けたという話も伝わる。生涯を通じて学問と商業を両立させ、商いで暮らしを立てた。たびたびメッカ巡礼を行い、ビザンツ帝国との戦いにも加わり、ハールーン・アッラシードの治世にはアッバース朝とビザンツの国境にあたるミシスやタルスス一帯で戦った。年ごとに巡礼とジハードを交互に行ったという伝えもある。詩人としても当代屈指で、詩は禁欲、ジハード、先人たちの生き方を主題とした。
著作は多く、大半は失われたが、ジハードに関する伝承や初期ムスリムの言葉を集めた『ジハードの書』と、禁欲を説く『禁欲と心を和らげるものの書』が知られる。ほかに『四十伝承の書』『徳行と親族の絆の書』『歴史の書』『法学におけるスンナの書』『ムスナド』『クルアーン注釈』などがある。797年(イスラーム暦181年のラマダーン月)、遠征から帰る途中、ユーフラテス川沿いのヒートで63歳で没し、同地に葬られた。その伝承は主要な六つの正典集成に収められ、ムスリム・ブン・アルハッジャージュも『サヒーフ』に彼の伝承を入れた。
同じ年に亡くなった人物
- マウリツィオ・ガルバイオ (797年)
- ベルムード1世 (797年没)
- シーバワイヒ (797年)
- コンスタンティノス6世 (797年没)
- ブクティス (797年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ムスタンスィル2世 (1262年没)
- イッズ・アッ=ダウラ (978年没)
- マイケル・モンスーア (2006年没)
- サッファーフ (754年没)
- Muhammad Zaidan (2004年没)