伝記
ヴァシーリー・ジュコーフスキーは、ロシア・ロマン主義を代表する詩人である。詩作そのものよりも、原作以上と評される自由闊達な翻訳で名をなし、その翻訳法は二葉亭四迷が「余が翻訳の標準」で称賛している。トゥーラ近郊のミシェンスコエ村に、地主貴族アファナシ・ブーニンと、露土戦争で捕虜となったトルコ人の使用人サリファとの子として生まれた。使用人との間の非嫡出子だったため、父の友人の下級貴族ジュコーフスキーと養子縁組し、その名を得たが、ブーニン家に連なる者として実父や家庭教師から相応の教育を受けた。1797年から1800年までモスクワ大学の貴族寄宿学校で学び、フリーメイソンの神秘思想、イギリスのセンチメンタリズム、ドイツのシュトゥルム・ウント・ドラングに強い影響を受けた。雑誌「ヨーロッパ報知」の主筆カラムジンとも親しくなった。
1802年にトマス・グレイの「墓畔の哀歌」の翻訳をこの雑誌に発表して文名をあげ、これが今日ではロシア・ロマン主義の夜明けとされる。1808年にはカラムジンから編集権を引き継ぎ、ロマン主義の主題や様式を探った。優れた詩作の多くは姪にあたるマリア・プロターソヴァに贈ったが、恋は悲恋に終わった。1812年にナポレオンがロシアに侵攻すると、総司令官クトゥーゾフのもとで参謀として働き、愛国詩を量産したほか、帝国国歌「神よツァーリを護り給え」の作詞も手がけた。戦後の1815年にはサンクトペテルブルクで宮仕えを始め、反古典主義を掲げる文学サークル、アルザマス会の一員となった。会には10代のプーシキンも加わっており、年長のジュコーフスキーの後継者として頭角を現す。やがてプーシキンは影響下から脱したが、両者は生涯の友であり、ジュコーフスキーは宮廷で庇護者であり続けた。
後半生は教育者・芸術のパトロンとして文化の発展に貢献した。皇太后マリア・フョードロヴナの侍講や大公妃アレクサンドラ・フョードロヴナの教師を務め、1826年には皇太子(のちのアレクサンドル2世)の傅育官に任じられた。1860年代の自由主義的な改革は、この先進的な教育によるとも言われる。宮廷での高位を生かして、レールモントフ、ゲルツェン、シェフチェンコら自由思想の作家をしばしば窮地から救い、1837年にプーシキンが死ぬと、遺志を継いで著作の収集と出版準備、検閲回避に努めた。ゴーゴリのような才能ある者も育て、ロマン主義運動の陰の立役者といえる。ビュルガーの「レノーレ」にもとづく「リュドミーラ」「スヴェトラーナ」やシラーの作品など、ドイツとイギリスの詩の翻訳がとりわけ称賛される。ヨーロッパを広く旅して、ゲーテやティーク、風景画家フリードリヒと親交を結び、若いころからの知己フーケの『ウンディーネ』を1830年代後半に『ウンディナ』として翻案して注目を浴びた。1841年に宮仕えを終えると主にドイツに住み、58歳で18歳の娘と結婚して二子をもうけ、その一人アレクサンドラは、アレクサンドル2世の子アレクセイと結婚した。余生はフェルドウスィーなど、インドやペルシアの叙事詩の翻訳に明け暮れ、1849年にはホメーロスの『オデュッセイア』を六歩格で出版した。1852年、69歳でバーデン=バーデンで没し、サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院の墓地に葬られた。
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