伝記
ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼンは、ロシア帝国海軍に仕えたバルト・ドイツ人の士官で、地図製作者、探検家であり、最終的に提督まで昇進した。ロシア最初の世界周航に参加し、のちに艦長として率いた世界周航で南極大陸を発見し、最初に南極を発見した候補の一人となった。ロシア語名はファッデイ・ファッデーイヴィッチ・ベリンスガウゼンという。1852年に亡くなった。
エーゼル島(サーレマー島)で、バルト・ドイツ人の貴族の家に生まれた。父方の家系はホルシュタインにさかのぼるとされ、姓はリューベックで最初に記録されている。10歳でクロンシュタットの海軍幼年学校に入学したが、そこでは「落着きがなく、それに素行もよくない」と評されたという。1796年に少尉候補生となり、翌年少尉に任官して、レーベル分艦隊で6年間勤務した。その評価はよく、世界一周を行う「ナジェジダ」の乗組員に選ばれた。ベリングスハウゼンはクックの航海の熱心な崇拝者であり、1803年に始まったアーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン艦長のもとの航海では、艦長から指導を受けた。航海は1806年に終わり、彼は新たに探検された領域や太平洋の島々の地図集を発表した。
その後は少佐に昇進し、1809年にはフリゲート「メルポメナ」の艦長としてスウェーデンと戦い、黒海艦隊では1812年から1816年までフリゲート「ミネルバ」、1817年から1819年まで「フローラ」を指揮した。1816年には中佐に昇進している。
1819年、皇帝アレクサンドル1世が南極海への探検を認めると、経験ある艦長で有能な地図製作者でもあった彼が、クルーゼンシュテルンの推薦で指揮官に選ばれた。南極点付近の陸地を探すことが目的で、スループ「ボストーク」にベリングスハウゼン自身が、「ミールヌィ」に副将のミハイル・ラザレフが艦長として乗り組んだ。途中でイギリスに立ち寄り、王立協会会長のジョゼフ・バンクスから書物や海図の提供を受けた。1820年1月、探検隊は南極大陸の氷原を目撃し、ベリングスハウゼンとラザレフは大陸の陸地を見た最初の探検家になったとされる。南の氷原に陸地を見つけることは不可能だというクックの主張を覆す成果であった。二人は大陸を2度周航し、互いの船を見失わなかった。冬季には太平洋南東部を調査し、ニュージーランドのシップコーブやトゥアモトゥ諸島などを回った。ピョートル1世島、ザボドフスキー島、レスコフ島、ビソコイ島、アレクサンドル1世島、南極半島などを発見して命名し、太平洋の熱帯海域でも複数の発見をした。探検隊は1821年8月にクロンシュタットへ帰還し、彼は聖ゲオルギー勲章や聖ウラジーミル勲章などを授与された。
帰国後は少将として1828年から1829年の露土戦争に参加し、1831年に南極航海の記録『二回の南氷洋探求と世界一周航海』を出版した。同年に中将となって再びバルト艦隊に勤め、1839年からクロンシュタットの軍事総督を務め、1843年には提督の階級を得た。1852年にクロンシュタットで亡くなった。ベリングスハウゼン海、ベリングスハウゼン基地、月のクレーターなど、その名を冠した地名や天体は数多く、ロシアと世界で最も偉大な提督、探検家の一人として記憶されている。
同じ年に亡くなった人物
- エイダ・ラブレス (1852年没)
- ファーテメ・バラガーニー (1852年没)
- カール・ブリューロフ (1852年没)
- カルロス・マリーア・デ・アルベアール (1852年没)
- Francisco Javier Echeverria (1852年没)
同じ地域に関係する人物
- エカチェリーナ・イオアノヴナ (1733年没)
- イェウヘーン・フレビーンカ (1848年没)
- アレクサンドル・プーシキン (1837年没)
- Friedrich von Adelung (1843年没)
- カール・アントン・フォン・マイヤー (1855年没)