伝記
トマス・ムーアは、1779年5月28日にダブリンで生まれ、1852年2月25日に没したアイルランドの詩人である。アイルランド古謡に英語の歌詞を加えた『アイリッシュ・メロディー』の作詞者として知られる。イングランドでは政治的に貴族的なホイッグ党の作家と考えられたが、アイルランドではカトリックの愛国者とされた。
14歳のとき文芸雑誌に自作の詩が掲載され、1795年にダブリン大学トリニティ・カレッジに入学して、母親の意向に従い法学を学んだ。在学中の交友を通じて、1797年にはアイルランド王国をグレートブリテン王国に併合しようとする動きに抵抗するよう学生たちに訴える文章を書いた。友人エメットが処刑された1803年の蜂起には参加しなかったが、1808年の歌「おお、彼の名を囁くなかれ」でエメットを追悼している。1799年にはロンドンのミドル・テンプルで法律の学習を続け、1800年にアナクレオンのオードの翻訳を出版した。1801年には仮名で詩集『故トマス・リトル氏詩集』を出し、接吻や抱擁を賛美するその内容は当時の作法の基準をはみだすものだった。1803年にはモイラ伯爵の寵愛でバミューダの海事賞金裁判所の職に就いたが、生活は退屈で、半年後に代理を立てて北米各地を旅し、大統領ジェファーソンらと交際した。
1806年の詩集を批判したフランシス・ジェフリーとは決闘になったが、のちに親友となった。バイロンの風刺詩にこのことを揶揄されて決闘に及びかけたものの、後に和解し、生涯の友人であり続けた。1808年から毎年アイルランドの舞台に出演し、共演していたベッシーことエリザベス・ダイクと1811年に結婚し、夫妻はのちにウィルトシャーのスローパートン・コテージに住んだ。5人の子をなしたが、いずれも両親より早く没している。1818年、バミューダの代理が6000ポンドを横領したことが判明し、債務者監獄を逃れてフランスへ渡った。ヴェネツィアでバイロンに会い、回想の原稿を託されている。ホイッグ党の友人やパトロンのために政治的風刺詩も書き、『2ペンスの郵便袋』や『パリのファッジ家』は広く読まれた。
『アイリッシュ・メロディー』は全10巻と補遺からなり、1808年から1834年まで26年をかけて出版された。「夏の名残のばら」などは非常に人気があり、各国語に翻訳され、アメリカ合衆国で「夏の名残のばら」は100万部以上売れた。1817年の長詩『ララ・ルック』は国際的に人気があり、シューマンはその一部をもとに『楽園とペリ』を書いた。『リチャード・ブリンズリー・シェリダンの回想』や全4巻の『アイルランド史』も著したが、後者は成功作とならず、ムーア自身も学術上の欠陥を認めている。
バイロンの没後、託された回想は、下品だと説得されて廃棄されたとされ、ムーアは同時代の人々から非難された。その後、メアリー・シェリーの協力も得て『バイロン卿の手紙と日記』を出版した。1840年代後半から衰弱し、1852年に72歳で没した。妻も5人の子供もほとんどの友人も先に世を去っていた。ブロマムの教会墓地に埋葬され、遺文は友人ジョン・ラッセルにより『回想・日記・書簡集』として出版された。アイルランドの国民詩人としばしば考えられ、スコットランドにおけるバーンズと同様の地位を占める。
同じ年に亡くなった人物
- オーギュスト・マルモン (1852年没)
- ホセ・バリビアン (1852年没)
- フェルディナント・ゴットホルト・マックス・アイゼンシュタイン (1852年没)
- フェリックス・ツー・シュヴァルツェンベルク (1852年没)
- August Cappelen (1852年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジョン・キーガン (2012年没)
- オリバー・ロッジ (1940年没)
- エリック・シプトン (1977年没)