伝記
ドミニク・フランソワ・ジャン・アラゴは、1786年2月26日、ピレネー=オリアンタル県ペルピニャン近くの小村に4人兄弟の長男として生まれたフランスの数学者、物理学者、天文学者であり、政治家でもある。弟のジャンはメキシコ軍の将軍となり、末の弟エティエンヌ・ヴァンサンは作家としてバルザックと合作したこともある。軍人を志してエコール・ポリテクニークへの入学をめざし、ペルピニャンの学校で数学を学び始めた。2年半で受験に必要な科目を修め、トゥールーズでの入学試験ではラグランジュについての知識で試験官を驚かせたという。
1803年末にパリのエコール・ポリテクニークに入学し、砲兵の道を歩もうとしたが、翌年ポアソンの助言と推薦でパリ天文台の助手となった。そこでラプラスと知り合い、その影響もあって、ビオとともに子午線弧長の測量を完成させる任務を与えられた。この測量はメートルの正確な長さを定める目的があり、ドランブルが始めたものの、メシャンの死で中断していた。二人は1806年にパリを発ってスペインの山岳地帯で作業を始め、ビオが帰った後もアラゴは測量を続けた。ところがフランス軍のスペイン侵入で政治的混乱が起こり、アラゴの活動は地元民に疑われた。山頂で火を焚いたことをフランス軍と連絡を取るスパイ行為とみなされ、1808年6月にベルベル城へ投獄された。7月に釣り船を奪って島を脱出してアルジェに漂着し、マルセイユ行きの船に乗ったが、スペイン人海賊に襲われてロザスに監禁された。フランス軍の到達で解放された後も、船が北風に押し戻されるなどして、アルジェ周辺での滞在は長引いた。1809年6月にようやくマルセイユに着き、検疫で隔離された間に受け取った最初の手紙がフンボルトからのもので、二人の交流は終生続いた。
帰国後、調査記録を提出した結果、1809年に23歳の若さで科学アカデミー会員に選ばれ、モンジュの後任としてエコール・ポリテクニークの解析幾何学教授にもなった。同時に帝立天文台の天文学者に指名され、以後は死ぬまで天文台に住んだ。1812年から1845年まで一般向けの天文学講座を開いて成功を収めている。1816年にはゲイ=リュサックと『化学物理学年報』を創刊した。光学ではフレネルとともに偏光を研究し、光の波動論を熱烈に支持した。世界初の偏光フィルターを1812年に発明し、石英の回転偏光力も発見した。磁気の分野では、1820年に電流による鉄の磁化を、1824年に回転磁気、通称「アラゴーの円板」を見いだし、のちの電磁誘導発見への道を拓いた。1825年にはロンドン王立協会からコプリ・メダルを受けた。
政治的には一貫して共和主義を支持し、1830年に代議院議員に選ばれた。公共教育や発明者への褒賞、科学技術の振興に尽くし、ダゲールの写真発明への褒賞や、鉄道・電信の発展も彼の主張によるものである。同年にパリ天文台長となり、ジョゼフ・フーリエの後任として科学アカデミーの終身会長にも選ばれた。1848年の2月革命では臨時政府に参加し、陸軍大臣を含む二つの閣僚職を兼ねて、海軍の制度改革とフランス植民地での奴隷制全廃を成し遂げた。1851年のクーデターの後、翌年に忠誠の誓約を求められるとこれを拒んで天文台長の職を辞したが、ナポレオン3世は例外を設けることにした。糖尿病を患い、ブライト病や浮腫を併発して、1853年10月2日にパリで没し、ペール・ラシェーズ墓地に葬られた。火星と月のクレーター、海王星のアラゴ環、小惑星(1005)アラゴ、パリのアラゴ大通りにその名が残っている。
同じ年に亡くなった人物
- Ernst Friedrich Germar (1853年没)
- ルートヴィヒ・ティーク (1853年没)
- フアン・アルバレス・メンディサバル (1853年没)
- アビゲイル・フィルモア (1853年没)
- グリエルモ・ペペ (1853年没)
同じ地域に関係する人物
- ガストン・ド・ガリフェ (1909年没)
- アンリ・フランソワ・ダゲッソー (1751年没)
- モーリス・シューマン (1998年没)
- アルベール・ロビダ (1926年没)
- アルテュール・オネゲル (1955年没)