伝記
ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスは、1777年4月30日にブラウンシュヴァイクで生まれ、1855年2月23日にゲッティンゲンで没したドイツの数学者・天文学者・物理学者である。近代数学のほとんどの分野に影響を与えたと考えられ、アルキメデス、ニュートンと並ぶ偉大な数学者の一人とされる。父は煉瓦職人の親方、母は慎ましい人で、両親とも学問には無縁の家庭であったが、子供のころから並み外れた神童ぶりを発揮したと伝えられる。7歳のとき算数の授業で1から100までの足し算を課され、わずか数秒で5050と答えて教師を驚かせたという逸話がある。ただし別の数列だったという説もあり、諸説ある。3歳になるかならないかの頃、父親の給料計算の誤りを傍から指摘したともいわれる。小学校のビュットナー校長は、ハンブルクから高級な算術の教科書を自費で取り寄せたが、ガウスはすぐに読み終えてしまった。校長は助手のヨハン・バルテルスにガウスを任せ、二人は共に学んだ。
バルテルスの知人だったブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェルディナントに1791年に謁見して援助を受けられるようになり、その支援によって1795年にゲッティンゲン大学へ進んだ。1792年頃、15歳のガウスは、1000個ずつの自然数に素数がいくつ現れるかを調べ、素数定理を予想したとされる。大学ではハンガリー貴族のボーヤイ・ファルカシュと友人になった。1796年3月30日には、定規とコンパスで正十七角形が作図できることを発見した。作図できる正多角形の種類が増えたのは約二千年ぶりで、当時の数学界に衝撃を与えた。この日から数学的発見を記すガウス日記をつけ始め、進路を数学者と決めたともいわれる。彼は正十七角形を墓標に刻むよう申し入れたが実現せず、記念碑には刻まれている。学位論文では代数学の基本定理を最初に証明し、後に三つの異なる証明を与えた。
最大の貢献は数論の分野である。1801年に出版した『整数論の研究』は、合同の記号を導入して合同算術を明確に表し、平方剰余の相互法則の初の完全な証明を与えた。ただし時代を抜きん出た難解な書で、発行部数も少なく、広く理解されるのは約50年後のディリクレの時代になってからである。1801年に発見後行方不明となっていたケレスの軌道決定の功績が認められ、1807年にゲッティンゲンの天文台長となった。1809年の『天体運行論』では最小二乗法を扱い、誤差の分布から正規分布が導かれることなどを示した。ルジャンドルが1805年に論文を発表していたが、ガウスは1795年にこの理論に到達していたという。
楕円関数やモジュラー関数など発表しなかった研究も多く、非ユークリッド幾何学の考えが世に漏れることにも極めて慎重であった。研究で美しい結果を得ること自体が最大の報酬で、世間の誤解による論争を嫌ったことなどが理由と考えられる。1818年からハノーファー王国の測量に関わり、その成果から考案した地図投影法はガウス・クリューゲル図法として今日も用いられる。測量への興味から曲面論を創始し、1827年に『曲面の研究』を出版して、曲率が曲面の内在的な量だけに依存することを示し、これを卓越した定理と呼んだ。この仕事は後のリーマン幾何学に影響を与えた。1855年にゲッティンゲンで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ペール・ダニエル・アマデウス・アッテルブム (1855年没)
- フィッツロイ・サマセット (初代ラグラン男爵) (1855年没)
- アンダース・ヨハン・シェーグレン (1855年没)
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- フルート・チャモロ (1855年没)
同じ地域に関係する人物
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