伝記
セーレン・オービュ・キェルケゴールは、1813年5月5日に生まれ、1855年11月11日に没したデンマークの哲学者・思想家である。今日では一般に実存主義の創始者、あるいはその先駆けと評価されている。コペンハーゲンの富裕な商人の家に、父ミカエルと母アーネの七人の子の末っ子として生まれた。父は熱心なクリスチャンだったが、もとは教会の一部を借りて住むユラン半島西部の貧しい農民の出で、幼いころにその境遇を憂えて神を呪ったという。その後コペンハーゲンの商売で成功したが、これを神を呪った代償と信じ、さらに前妻の死の直後にアーネと関係を持ったと考えられていることも背景にあり、父はそれらを罪と受け止めて、子供たちはキリストが磔刑に処せられた34歳までしか生きられないと思い込んでいた。実際に七人のうち、セーレンと長男を除く五人が34歳までに亡くなっている。セーレン自身も自分は34歳までに死ぬと確信しており、34歳の誕生日を迎えたときには、信じられず教会へ生年月日を確かめに行ったほどだという。
1835年に父の罪を知った出来事を、彼は自ら「大地震」と呼んだ。この事件ののち放蕩生活を送ったとされるが、1838年とする説もあり、その説では以前からの放蕩を立ち直らせた事件とされる。父の信仰と罪への恐れは息子にも引き継がれ、『おそれとおののき』などの作品に大きな影響を与えた。もう一つの大きな出来事が、レギーネ・オルセンとの婚約破棄である。1840年に17歳のレギーネへ求婚し、彼女は受諾したが、約一年後に彼は一方的に婚約を破棄した。日記には「この秘密を知るものは、私の全思想の鍵を得るものである」と記しており、『あれか―これか』や『人生行路の諸段階』にはこの事件との密接な関連が指摘される。真相は定かでなく、いまだ謎に包まれている。レギーネが1847年にフレゼリク・スレーゲルと結婚した後も、二人は愛し合っていたと考えられている。1849年にレギーネの父が亡くなると、和解を求める手紙を夫宛ての手紙に同封して送ったが、封をしたまま送り返された。
彼の哲学の根底には、一般的・抽象的な概念としての人間ではなく、自分自身をはじめとする個別で具体的な実存としての人間を対象とする姿勢がある。「死に至る病とは絶望のことである」と述べ、死がもたらす絶望は避けられず、神による救済の可能性のみが信じられるとした。当時のデンマークで絶大な影響力を持っていたヘーゲル哲学に対しては、個々の人間の矛盾や葛藤は抽象論では解決されないと批判し、逆説弁証法を提示した。また自らの思想を具体的思考と呼び、「主体性は真理である」と述べる一方、「主体性は非真理である」とも述べた。初期の著作の多くはさまざまな仮名で書かれ、「美的著作」は偽名、「宗教的著作」は実名で書かれている。彼自身は、本意は宗教的著作に向かっていたと言明している。
幼少のころから日記を綴り続け、これは著作と同等以上の価値をもつ資料として扱われることがある。晩年にはデンマーク教会の改革を求める教会闘争のさなかに道ばたで倒れ、病院で亡くなった。遺言書で、レギーネを「私のものすべての相続人」に指定していた。レギーネは遺産の相続は断ったが遺稿の引き取りには応じ、封をしたまま返された手紙もこのとき彼女の手に渡った。レギーネと、彼女の親友でキェルケゴールの姪にあたるヘンリエッテ・ルンらの努力によって、遺稿は後世に伝えられた。
同じ年に亡くなった人物
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- カール・マイアー・フォン・ロートシルト (1855年没)
- ポラック・ミハーリ (1855年没)
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